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錦秋の大和路・奈良公園から、白毫寺まで


いやあ、お見事です。
こんなにきれいな紅葉を見たのは久しぶり!

実は、一週間前にもこの奈良を訪れていたのですが、かなり木々が色づき始め、歩き回るには打ってつけだったのですが、午前中に野暮用などがあったりしたため、ちょっぴり歩いてモミジの写真だけを撮ってきました。

しかし、せっかくこんなにきれいな町なのにのに、あのままでちょっぴりの写真を撮っただけで終わってしまうのはもったいなさ過ぎる。

と言うわけで、今日は早起きして、また一人、フラフラと奈良の町を巡り歩いておりました。

「近鉄奈良駅」の階段を上ると、すぐにこんな道路に出ます。
さすがに世界有数の観光都市、緑が多く、道路の歩道部分も広い!

大抵の場合、古い町の道路は狭くて、それでいて観光客の乗ってくるマイカーが押し合いへし合いしているものなのですが、ここだけはそうじゃないみたい。

町の中が全て公園のようで、本当にお散歩するには抜群の町でした。

この道沿いに、1998年に、「世界遺産」として登録された、「興福寺」があります。

正面にある、「猿沢の池」から眺めると、緑の中から五重塔がすっくと立ち上がった姿がとても美しく見えるお寺です。
後で紹介する「東大寺」とこの「興福寺」が奈良には欠かせない存在になっています。

まさに観光名所のビッグ・ツーと言ったところでしょうかね。


これが「猿沢の池」の向こう岸から見た「興福寺」

この「興福寺」の歴史はかなり古く、西暦669年に「藤原鎌足」の遺志で、夫人の鏡女王(かがみのおおきみ)が、まず私邸のある京都山科に建てた「山階寺」が創建とされています。

それが後に今度は「飛鳥」へ移され、「厩坂寺」と改称され、またまた今度は、西暦710年の平城遷都に際して、「藤原不比等」がこの寺も現在の地に引っ越しさせて「興福寺」と名前を改めたそうです。

そして、その後、聖武天皇と光明皇后の御願で、右にある「東金堂」と、「五重塔」が建立されました。

それ以来、奈良時代には五大寺、平安時代には、七大寺のうちの一つとして、大変栄えたそうです。

西暦1180年(治承4年)の兵火でいったん伽藍が全て焼けてしまいましたが・・・・

ホレホレ、歴史の時間に習ったでしょ。
平安時代の末期、晩年の平清盛が安徳天皇を押して一大勢力を握っていた頃。

その年、以仁王が令旨を出し、それに呼応して東国の源氏が次々と挙兵した年です。

まず、源頼政が挙兵して宇治で敗戦、そして、鎌倉では源頼朝が石橋山で戦を起こし、木曽義仲が挙兵をした。

そんなバタバタした年に、その騒ぎに巻き込まれてしまって、それでこの大きなお寺も丸焼けになってしまったのですが、鎌倉時代に入ると、すぐさま復興し、大和守護職の任に当たるなど、ものすごく強大な勢力を誇っていました。

東金堂(国宝) 五重塔(国宝)

しかし、戦国自体の頃から次第に力が衰え、西暦1717年の大火で中心の伽藍が消失。
明治になってからの廃仏毀釈の際には、ほとんど廃寺同然だったそうです。

いったい何坪有るのかよく分かりませんが、このお寺、当時のお金で50円で売りに出された事もあったそう。

50円なんて、今の貨幣価値に換算するといくらぐらいになるのか分かりませんが、聞くところによると、ものすごい安値で売りに出されたという意味合いにとればいいそうです。

南円堂 北円堂(国宝)

広い境内の中をあっちへウロウロ、こっちへウロウロ。
この境内の中にいるだけで、けっこうな運動量に感じてしまいます。

上の写真の「南円堂」は、西国三十三カ所の第九番札所として定められているため、たくさんのお参りの人が見えておられました。
それに引き換え「北円堂」、国宝に定められたせいなのか、それとも脆くなってきているのか、ぐるりをへいで囲われてしまって人の姿も余り見られない。

この「南円堂」と「北円堂」の間に、「西金堂」の跡地があります。
「南大門」「講堂」「経堂」「西金堂」は、大火で消失して以来そのまま復興もされずに伽藍から欠けたままになっていますが、「西金堂」は、能の「金春流」の発祥の地なんだそうで、その跡地を示す石碑が建てられていました。

「南円堂」の横にある階段を下りると、国宝に指定されている「三重塔」に行き当たります。
これは1143年に「崇徳天皇」の中宮「藤原聖子」の御願で建立された物。

今の塔は鎌倉時代に再建された物ですが、「南大門」の東側にある「五重塔」と違い、何だかこぢんまりしていて、それでいて美しい姿を見せてくれています。

塔の一階部分の内部には、釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒菩薩をそれぞれ1000枚ずつ描いた極彩色の板絵があるそうですが、今は公開されていません。

いったいどんな絵なんでしようねぇ。

「三重の塔」の前からなお階段を下りていくと、そこから見えてくるのが「猿沢の池」。

この池の向こう側から「興福寺」を撮った写真が奈良のポスターにしばしば使われています。

今は木々がとても大きく生長し、「五重塔」の最上部しか見えなくなっておりますが、まだこの辺りがほとんど整備されていない戦前に撮られた写真を見ると、「興福寺」の伽藍がほとんど木に隠れることなくはっきりと見えていて、昔の景色は今のより数段美しいものだったと言うことかよく分かります。

この池にはとても悲しくて、そして不思議な伝説が残されています。

池の北西部の隅に鳥居を背にした後ろ向きの祠が建つ、「采女神社」があります。

昔、御門から急に冷たくあしらわれるようになった采女が、我が身をはかなんでこの池に身を投げたので、ここに祀ったところ、この祠が一夜のうちに池に背を向けてしまった。

そう言うお話しが伝えられていますが、池の周囲には柳が枝を垂れ、その下にはベンチも置かれてのんびりと足を休めるには打ってつけの場所となっています。

そして次に私が足を向けたのが、「東大寺」

「登大路」と呼ばれる国道369号線まで、興福寺の境内を突っ切りそして東に向かうとこのような建物が見えてきます。

これは奈良にある「国立博物館」の本館です。

この裏手にもう少し規模の大きい新館があり、つい先日まで「東大寺正倉院御物」の展示会が行われていました。

普段でも色々な催しがされていますが、時々滅多に見られないような国宝級の仏像などが展示されたりする事もあります。

もし奈良を訪れるような機会があれば、ぜひ一度足を向けて貰いたいところです。

その博物館の筋向かいの国道沿いに有る何の変哲もない小さな建物。

昔は「日吉屋」という屋号で旅館を経営されていたところです。

今は経営者ご夫婦も高齢になられて、旅館業を辞められてしまい、玄関もこのように雨戸が閉められたままになっていますが、この旅館は、知る人ぞ知ると言う、ちょっとした名所のようになっています。

昔、まだ駆け出しでペンだけでの暮らしに窮していた多くの文人達、そう言う人達がこの旅館の経営者の世話になっていたそうです。

宿代は格安、支払いに困った時はいつまででも待ってくださったらしい。

この旅館の世話になった、多くの文人達の中に、かの「川端康成」初め、その他著名な作家がいたと言われています。

興福寺の裏手から5分も歩くと東大寺の参道に行き着きます。

さすがに土曜日、内外の観光客の姿が目立ち、そしていったい何校来ていたのか、修学旅行生の団体もいっぱい。

耳をすますと色々な方言が飛び交い、その中には中国語、ハングル語、英語、その他諸々聞き慣れない外国語もいっぱい混じっていて、まさに人種のるつぼ状態。

かつて、いにしえの奈良朝時代のこの通りもこのようなものではなかったのでしょうか?

当時は観光客などは多分いなかったでしょうが、はるばる海外からやってきた商人達、東国や、九州あたりから徴用のために連れてこられた人々。

今から約1300年ほどの昔をしのばれるようなそんな印象を持たされる一瞬でした。

最近は「人力車」が流行のようで、若い男性達がしきりに回りの観光客に声をかけているのが見られます。

「そこのきれいな、おねえさ〜〜ん。エスコートさせて貰いますよぉ!」

さすがに車夫の装束は昔風なれど、掛ける言葉は現代風。

どういう訳か、車夫をやっている男の人達って、けっこうカッチョイー系が多いのよねぇ。

「あ、おねえさまー、お車を用意してお待ちしてました、どうぞぉ。」

お姉さまなんて、そこら辺にいっぱいいるじゃない、ま、私の事じゃおまへんわな、だって私、オバサンだし。。。。

そう思ってさっさと先を急ごうとすると、どえらい美形の男の子が道をふさぎ、

「ほら、美人の貴女。さっきから呼んでんのにぃ、無視するんだからぁ。」

ガハハッ・・・・・何とお口のお上手な事。(*・・*) ポッ

しかし、今日の所は美形の男の子と遊んでる場合じゃない。ましてや今は、超ビンボーこの上ない時期でごじゃります。

「ごめんねぇ。今度、友達と来た時にでも、お世話になるねぇ。」

なぁんて言って、男の子を振りきってさっさと歩き出したけど、思いっきり後ろ髪惹かれまくり(笑)
ソース顔のメチャクチャハンサムな男の子であったが・・・・・。

今度来た時、また声をかけてくれるかしらん
.。o○

参道を行くと、すぐそこに「東大寺」の「南大門」。
余りに大きく、私のカメラには収まり切れません。
柱の足下に集まって、ガイドさんの説明を聞く団体客の姿から、この門の大きさを想像してみてください。
この楼門の高さは25.5メートル。
中国から伝わった大仏様式で建てられています。
今のこの楼門は鎌倉時代に再建されたものですが、国宝に指定されています。

   

そして、この楼門の内部の両側に立っている、「金剛力士像」、左側のものが「阿形」右側のものが「吽形」です。
像を保護するネットが邪魔をしてうまく写真には収められませんでしたが、8.4メートルもの巨体です。
これも鎌倉時代に造られたものですが、当時の大仏師、「運慶、快慶」の作で、今は国宝になっています。

この大きな楼門を抜けると「鏡池」と呼ばれる、ドーナツ型をした小さな池があります。

その向こうに見えてくるのが、「中門」と「大仏殿」。

「大仏殿」は、「中門」からのびる回廊にぐるりと囲まれて、大屋根に金色の鴟尾を乗せた姿で建っています。

この「東大寺」の歴史も、やはり古く、建築が始まったのは天平の頃からです。

天平13年(741年)に全国の国分寺が建てられた時、良弁僧正が開いた「金鐘寺」を大和国分寺とし、「金光明寺」と称されました。

これが「東大寺」の初期の頃です。

その2年後、聖武天皇により、大仏造顕の詔勅が出され、行基が勧進僧となって翌年信楽の「甲賀寺」に大仏の骨柱を立てたが、中止。

そして、天平17年(745年)に、「金光明寺」に造東大寺司が置かれ、東大寺の造営が開始されたと有ります。

天平19年になって、2年がかり、合計8度の鋳込みで大仏が鋳造され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われました。

そして、大仏殿や講堂などの伽藍は延暦8年(789年)に完成したと言うことです。
このお寺を建てるだけで、40年以上もの年月をかけられたわけですねぇ。
しかし、納得!
ホンマ、でっかい!!

鏡池」の横を過ぎると、目の前に中門が・・・・
ほらね、これの大きさも半端じゃない。

そして、これがいよいよこのお寺の主役、「大仏殿」です。

「大仏殿」は、正式には「金堂」と呼ばれています。

この建物も幾度となく大火に遭い、中に収められている「毘盧舎那仏」と共に、苦悶の歴史をたどっています。

まず治承四年(1180年)、平の重衛の南都征討のために炎上、元暦元年(1184)にいったん壊れてしまった大仏も修復され開眼したが、永禄10年(1567)松永久秀の兵火のために再び炎上、今度はそれから120年近く放って置かれたままだったのが、元禄5年(1692)になって再び大仏が修復され、宝暦6年(1709)には大仏殿も落慶されようやく今現在に見る寺の姿になったと言うことです。

このように何度も戦火に見舞われては補修され、最終的に宝永6年(1709)に再建されましたが天平の頃と比べて、東西方向の巾が3分の2くらいまで小さくなっています。

それでも高さは47.34メートル、東西の巾は57メートル、奥行きは50.48メートルと言う壮大な建築物には違い有りません。

いよいよ大仏殿のすぐ近くまで・・・・・・・・

すると正面にこんなのが・・・
見た事ありませんか?

長らく、年賀状以外の官製葉書を買った事がないので、今はどのようなデザインになっているか知りませんが、官製葉書の切手の所に印刷されていたもののモデルです。

これは国宝に指定されている「金銅八角灯籠」で、高さは4.6メートルもあります。
大仏殿に見学に来られたら、見逃さないでくださいね。

この辺りまで来ると、団体や個人で訪れた観光客でごった返しています。

修学旅行で来たのであろう、中学生の姿も団体であったり、自由行動なのか少人数のグループであったり。

この奈良界隈を訪れる中学校って、どこの中学なんでしょうねぇ。

それにしても、制服はもちろん違うけど、校風もずいぶん違っているようで、ものすごくおとなしい学校有り、逆にこちらが眉をひそめたくなるような学校もあり。

色々あるものです。

「大仏殿」正面の階段を上ると、右側にこんな像があります。

長い年月の間、風雨にさらされた事もあるのか、お顔はずいぶん不気味な感じになっちゃってますが、別名「撫で仏」と呼ばれ、病気を治す仏様として信仰されています。

これは「賓頭廬尊者」(びんずるそんじゃ)と呼ばれ、釈迦の弟子の一六羅漢のうちの一人。

神通力に優れ、その威力の程は釈迦にとがめられたほどに強力だったと言われています。

この像は、江戸時代に造られたものですが、体の具合の悪い時にこの像の同じ部位を撫でると、病が癒されると信じられ、人の手の届くところはぴかぴかになっています。

私にも直して欲しいところはゴマンとあるのですが・・・・・・・・・

こんなに大きな像をまた、こんな高いところに据えちゃってぇ〜〜、脚立があっても、触りたいところに届かないかも〜〜

ん?

どこを直して貰いたいのって?
へへっ、あんたが直して貰いたがってるところと一緒だよっ〜♪

そしてとうとう「大仏殿」の中へ・・・・・・
大仏様です。
写真撮影はOKと言うことなのでしっかりカメラに収まって貰いましたが、実はこの建物の中はこんなに明るくないんです。
画像を加工する段でだいぶ明るめにしましたが、ちょっと薄暗めのこの中にこうして座っておられる姿を拝見すると、仏教徒でない私でさえ、厳粛な気持ちになります。
大仏さんを写真に撮る時は、この角度からが一番きれいだというガイドさんの声を聞きかじって早速実行してみましたが、さあ、どうなんでしょうねぇ。
確かに正面から撮ると、柱や供えられている花が邪魔になって、良い写真にはならなかったように思います。

   

大仏さんの左右には、二人の仏さんが祀られています。
向かって左側が「弥勒菩薩」、そして右側が「如意輪観音」です。
さらに大仏さんの斜め後方には二体の神将像が安置されています。

広目天 多聞天

二体の神将はそれぞれに、邪鬼を踏みつけた姿で立っていらっしゃいます。

そのうちの多聞天の写真には、横にある柱の回りに数人の人だかりがしているのに気付かれたでしょうか?
半分しか写っていないこの柱ですが、足下に穴があいているんです。
この穴は、大仏の鼻の穴と同じ大きさで、この穴をくぐり抜ける事が出来ると、大変な幸運に恵まれるんだそうです。
トライしたいなぁ、と言う気はあったのですが・・・・・・・・・・・
さっきから三.四才くらいの女の子が泣きわめいたはります。

「出て来られへんようになったぁ〜〜(。>_<。) えーん」

それを見て周囲が大笑いしている図の片割れがこれなんですが・・・・・・・

幸運を得ようと思うと、決死のダイエットが必要みたいです(滝汗)

大仏殿から外へ出ると・・・・・・・・・

わぁーっ、まぶしいっ!!

外には相変わらずたくさんの人が次々とこちらを目指してやって来るところが見えます。
ほとんどが観光客なのですが、それにしても良くもこんなに集まった事!
ちまたでは不景気だと言われていますが、本当にそんなに不景気なんだろうかという気がします。

大仏殿を後にして、西に向かうと「戒壇院」
松林の中にある階段を上るとそこ建っています。
「戒壇院」、すなわち、戒を授ける時に使う壇を収めてあるお寺です。
大仏開眼より2年後の、天平勝宝6年(754)、唐から招いた鑑真和上が大仏殿前に階段を築き、聖武上皇ら400人もの貴人達に戒を授けたが、その翌年孝謙天皇の宣旨により建立されたものです。
この堂は、享保17年(1732)の再建ですが、堂内には三段の戒壇が設けられ、中央には多宝塔、四隅には天平期に造られた四天王像が安置されています。

「戒壇院」の横手を抜け、いったん国道まで出ますが、200メートルほど北に行ったところに「転害門」という門が残されています。
これは東大寺創建当時の遺構で、今は国宝に指定されています。

「転害門」の横の潜り戸を抜けて、また東に向かって、今度は「二月堂」を目指しました。
「正倉院」を厳重に囲った塀の横を歩きやってきたのが「大仏池」の畔。

「大仏池」の畔では、おりしもポカポカと照りつける小春日和に誘われたのか、数人の人達が絵筆を奮っている最中でした。
その人々の視線の先に目を移すと・・・・・・

ワオッ!!

これこそ絶景ですねぇ。

ここから池の周りを歩いて、「大仏殿」の裏手に出ます。

そのまままっすぐ行くと、「大仏殿」東側にいくつかの建物が点在しているところまで行き着きます。

その中の代表の一つが「四月堂」、別名「三昧堂」と呼ばれている建物。

旧暦の4月に法華三昧会が開かれたので、それで「四月堂」とか「三昧堂」と呼ばれているわけです。

そのちょうど向かいには、「三月堂」(法華堂)があります。

「東大寺」の前身、金鐘寺の羂索堂として天平18年(746)頃に建立された、「東大寺」最古の建物です。

もちろん、国宝にされています。

昔は寄せ棟づくりの本堂と、入母屋造りの礼堂が並んでいたのだそうですが、鎌倉時代になってから、中屋根を付けて建物を一棟に繋いだのだそうです。

旧暦の3月に法華会が開かれるので「法華堂」となり、「三月堂」と呼ばれるようになりました。

堂内には、「不空羂索観音立像」を中央に日光・月光菩薩、四天王、金剛力士像など、国宝、重文の仏像16体が安置されています。

そしてこれが、「二月堂」。

毎年3月になると、必ずと言っていいほどテレビのニュースなどで登場する建物です。

旧暦の2月に「修二会」の行事が執り行われたので「二月堂」というネーミングになっています。
皆さんが「二月堂」をテレビでごらんになるのは、夜に大松明を振りかざすシーンだけですよねぇ。
昼間に見る「二月堂」はこんな感じです。

他の建物よりも一段高い斜面に建っていて、ここから見る奈良平野の景色は素晴らしいものだそうです。

この建物は、天平勝宝4年(752)に良弁僧正の高弟によって建立されましたが、
今の堂は寛文9年(1669)に再建され、国の重要文化財となっています。

中には、本尊の十一面観音像が安置されていますが、秘仏と言う事で、公開はされていません。

しかしこの階段、かなり急な階段。

何段有るのか分かりませんが、登っていくだけで息が切れそう。

さっきからたくさんの観光客が登っていきますが、うーん、私はちょっと遠慮しておきました。

そしてこの鐘も、テレビでおなじみの梵鐘です。

年末の大晦日になると、何年かに一度は除夜の鐘を突くシーンで登場する鐘です。

その時には、いつもたくさんのお坊さんが集団でこの鐘を突いていますが、まさに一人でこの鐘を突くのは大変だと思われるほど大きなものです。

この鐘の厚み、だいたい目分量で二十センチくらいはあったかな?

七.八人の人間なら軽くこの鐘の中に収まってしまうくらいです。

この鐘は、実は大仏創建当時から伝わるもので、この鐘を吊している鐘楼は鎌倉時代に建立されたもの。

これらも共に国宝に指定されています。

「三月堂」の真向かいには「手向山八幡宮」があります。

東大寺建立時の守護神として宇佐八幡宮を勧進したもので、鎌倉時代にここに移されました。

「手向山」というと、いにしえの頃からモミジの名所として知られ、今でもたくさんのモミジがあり、今日は見事な紅葉を見せてくれていました。

このページのトップに据えた写真も実はここ、「手向山八幡宮」で撮った物です。

平安時代初期の頃、菅原道真によってこの山の紅葉が和歌に詠まれていますが、百人一首の中の一首として残っているので、ご存じの方も多いかと思います。

「このたびは ぬさもとりあへず 手向山 もみぢのにしき 神のまにまに」

「手向山八幡宮」の裏手にある朱の鳥居から外に出ると、春日大社の入り口まで、たくさんの土産物屋さんや、旅館が軒を並べています。

「あまのはら ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」

歌枕を尋ねての旅なんて事をしていたワケじゃありませんが、この通りの東側には、「阿部仲麻呂」の歌で名高い三笠山があります。

別名「若草山」とも言われていますが、奈良市内ならどこから眺める事の出来る山です。

木はほとんど生えていず草だけの山ですが、円い丘が三つ重なるようになっているので、それで「三笠山」と呼ばれるようになりました。10分ほどで登り切る事が出来て、そこから眺めると、東大寺や奈良市街が一望に出来ます。

毎年成人の日の前日に山焼きが行われ、真っ暗な中、じわじわと山頂をめがけて登っていく光の帯が幻想的です。
ただし、これ、近くで見ても面白くないですよ。

そうこうするうちに行き着くのが「春日大社」

春日山の原生林を背にして、立ち並んでいる檜皮葺で朱塗りの社殿がとても鮮やかです

神護景雲2年(768)に、常陸の国の鹿島神宮から「タケミカヅチノミコト」を勧進し、三笠山頂上に祀ったが、後年この地に移されました。

そして、「フツヌシノミコト」「アメノコヤネノミコト」「ヒメガミ」も祀って、四所明神と崇められ、開運、厄除けの守護神、「鹿島立ち」の故事から交通安全の神様として今も参拝者が多く来られます。

参道には二千基の石灯籠が並び、回廊の軒にも千基の吊り灯籠が下げられ、毎年2月の節分の日と、8月15日の夜には、全ての灯籠に日が入れられます。

「万灯籠」と呼ばれる行事ですが、幻想的なものらしいです。

この「春日大社」の境内には、神苑と呼ばれる庭があります。

飛火野(とぶひの)と呼ばれる原っぱの一隅、池をめぐる庭園の中に万葉集で詠まれた植物が三百種ほど植えられ、それぞれにその植物の名前と詠まれた歌が記されています。

そして、その隣には「鹿苑」と呼ばれる鹿の保護施設が設けられています。

春日大社のタケミカヅチノミコトが、鹿島から白い鹿に乗ってやってきたという伝説から、昔からこの地では鹿をとても大切に扱っていたんです。

江戸時代の元禄年間、時の将軍徳川綱吉によって「生類憐れみの令」が出され、犬をやたら大事に扱った時がありましたが、それよりはるか昔から、この辺りの人達は鹿を大事にする余り、大変な苦労をされたと聞いております。

年老いていたり、病気に掛かった鹿が家の回りをウロウロしていると、その近所に住んでいる人達は戦々恐々としたとか。

それは、鹿を死なせてしまうと、その当人も殺されてしまうからです。

その代表的な例として、「石子詰め伝説」というものがあります。

いつの時代か定かではありませんが、興福寺へ字の手習いに通っていた十三才の三作という名の少年が、近づいてきた鹿に、いたずら半分で、その鹿の鼻に筆に付いていた墨を塗ったのだそうです。

すると、どういう訳かその鹿が死んでしまった。

三作はたちどころに捕らえられ、死んだ鹿と一緒に穴に入れられ、上から石を詰めて生き埋めにされてしまいました。

その跡が塚になって、興福寺の南側、三条通を隔てたところにある「大御堂」の境内に残されています。

春日大社の中をしばし巡り歩き、木立の中にベンチのおいてあるいい雰囲気の所まで来たので、ここでしばしのお昼休み。

家から持ってきたおにぎりを囓りながら周りを眺めていると、辺りは全く緑でいっぱい!!

こういう所って好きなんですよねぇ.。o○

左にある、緑で囲まれた小径は、「ささやきの小径」と呼ばれています。

私はこの路の入り口付近で昼ご飯を食べていたわけなのですが、素敵なデートコースとしては一押しでしょうねぇ。

本当に静かで、ささやくだけで充分に声が聞こえます。

高校時代、良くこの道を友人と歩きましたが、必ず出てくるセリフが、
「どっかにこの道を一緒に歩いてくれる、素敵な『彼氏』がいないかなぁ。」
でした。

周りにある木立は、「馬酔木」という木です。

所々、この木がトンネルのようになっていて、春先になると、スズランのような花がいっぱい咲き誇り、本当にロマンチックそのものです。(素敵な「彼氏」急募)

春日大社の二の鳥居付近から、高畑と言うところまで続きますが、その終点近くに「志賀直哉」の旧居に行き着きます。

「志賀直哉」(1882〜1971)は、大正中期から昭和にかけて活躍した小説家です。

代表的な作品として、「城之崎にて」「和解」「暗夜行路」などがあります。

この家は白壁の築地塀で囲まれた、数寄屋造りの二階屋ですが、この建物は志賀直哉本人の設計したものだそうです。

昭和4年から13年までこの家に住んでおられたそう。

大作の「暗夜行路」はこの家の書斎で書かれたものだそうです。

実は昔、「暗夜行路」を読んだ事があったのですけどねぇ、私の記憶が確かなら、途中で投げ出しちゃったのではなかろうか。。

そんなに難しい話じゃなかったと思うけど、とにかく途中で首をくくりたくなりかけたというのが理由です。

本を読むのは好きだけど、これはちょっと私には合わない。

かなり暗いお話しだったように思います。

それと良く似たものに、クラッシック音楽の中のマーラー作曲「復活」というのがあります。
これもよほどハイテンションの時に聴かないと、同じような症状が出ちゃう。(オイオイ、病気か?)
ま、アレルギーみたいなものなんでしょうかね。(違

少々崩れかけた土塀が続いて良い風情を出している滝坂道(柳生街道)を歩き、やがて南にそれると、華厳宗の古刹「新薬師寺」に行き着きます。

これは、聖武天皇の眼病を治すため、光明皇后によって建立された寺です。

創建当時「食堂」だったという「本堂」には、十二神将に守られて、本尊の薬師如来坐像が安置されています。

薬師如来坐像は平安時代の一刀彫で、高さは1.9メートルもあり、宝相華の葉の珍しいデザインの光背が添えられています。

その薬師如来坐像を守っている十二神将のうち11体は平安期に制作されたものですが、宮毘羅像だけは、安政元年の地震で倒れて壊れてしまい、昭和6年になってから補作されたものです。

ここからさらに南へ・・・・・・・・・途中東におれると、「白毫寺」

今にも崩れそうな土塀と、石段が古寺という雰囲気を醸し出してくれています。

石段の両側には、萩がびっしりと植えられていて、ここも9月頃には人が押し掛けてきます。

今は花の時期も終わり、葉が色づきかけていますが、もう少し後から来ると、この葉の黄葉も進んでいてもっときれいなんじゃないかしら。

この寺は、天智天皇の第七皇子である、志貴皇子が山荘として使っておられたのを、皇子が没された後に寺に改められたものです。

開山は、空海の師「勤操」だと伝えられています。

鎌倉時代に、僧、道照が中国から持ち帰った「大宋一切経」納めてから、「一切経寺」とも呼ばれるようになりました。

もうそろそろ、私もお疲れ気味。

ここまでけっこう歩きました。

このまままっすぐ国道に出ると、バス停があるのですが、バスの本数は極端に少ない。

それにほとんど歩道らしい歩道のない道、車がビュンビュン行き交うところで長く待っている気も起きない。

それで、ここで私はUターン。
またせっせと歩いて、「新薬師寺」の横をすり抜ける時に気が付いた。

よっしゃ!!西へ向かおう!
「志賀直哉邸」の裏の通りをまっすぐ西へ行くと、「奈良町」界隈に出たはず。

「奈良町」とは、「猿沢池」の南側、「元興寺」界隈がそう呼ばれ、狭い道の両側に屋根がちょっと低めで格子戸の家が建ち並んでいます。

   

こんな感じの町並みです。

なかなかいい雰囲気でしょう。
でも、時代の流れは確実にこの町にも変化をもたらせています。
こんなの見つけました。

奈良の特産品として、真っ先に挙げられるのが、「墨」「筆」「刃物」そして、「奈良漬け」ですが、その他に良く知られているのが「蚊帳」なんです。
上の建物は「蚊帳」の老舗なんですが、この塀にはこのような看板が・・・・・・・・・・・

こんな古風な家に住んでおられて、古風なものを扱っておられても、頭の中はとってもフレキシブル!!
「奈良商人」の底力が垣間見えたような気がします。

もう少し行けば、「十輪院」、「元興寺」「庚申堂」などの古刹がいっぱいあるのですが、
そろそろ私も限界みたい。

ほんま、良く歩きました!
「奈良町」界隈のお散歩の続きはまた後日と言う事に。


今日は、奈良名物「柿の葉寿司」でも買って帰ろう〜♪

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