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冬の嵯峨野路


「あだし野の露消ゆる時なく鳥部山の烟立ちさらでのみ住果つる習ならば如何にものの哀もなからん世は定めなきこそいみじけれ」

これは兼好法師が「徒然草」に記したものですが、嵯峨野一帯、この地は都にすむ一般人の風葬の地とされていたところです。
今は、一部、高級住宅街のような所もあり、そして、観光客でかなりの賑わいを見せていますが、当時はどう言うところだったのでしょうね。
この日、朝の天気予報では、京都南部、曇り時々雨または雪、降水確率60%、最高気温5度の予想が出されていました。
全く持って、寒かった、大阪と違い、同じ温度でも、盆地になっている京都の冷え方は質が違うというのか、底冷えがします。
「梅田」から、阪急京都線、途中「桂」で乗り換えて、「嵐山」で下車。
「梅田」からなら、約1時間で行き着きます。
「嵐山」の駅を出ると、空はドンヨリと曇ってて日差しは全く無く、やっぱり寒い、電車の中がとても暖かかっただけに、余計こたえました。
駅前の小さなロータリーを突っ切ると、桂川の岸辺がすぐそこ。

向こうに見えているのが、「渡月橋」
この「桂川」、「渡月橋」の周りは、「大堰川」と呼ばれ、そこをを境にして、そこより上流は、川の名前が変わり、「保津川」と呼ばれます。
今はちょっと寒すぎますが、春の桜の季節、夏の深緑、そして秋のモミジ、保津川下りの船から見る保津峡の眺めは絶景だと言われています。

渡月橋を渡りきり、そのまままっすぐ行くと、左手に「美空ひばり記念館」があります。
出入り口付近、今でも美空ひばりを偲んでやってこられた方達が沢山おられました。どちらかというと、私の母親か、それ以上の世代の人ばかりでしたね。
でも、人気あったんですねぇ、私は全然、興味も持てなかったけど・・・・・、ただ、「川の流れのように」、あの曲はちょっと好き目です。
しばらく歩いて、「南芳院」の角を左に折れると、「天竜寺」に行き着きます。
この日は「天竜寺」には行かず、そのまま竹林の細い小径へ・・・・・・・
残念だったのは、この時、そよりとも風が吹いていなかったこと。
風など吹けば、それでなくても寒い京都、震え上がってしまうに決まっているのですけどね、ここだけは特別。
実はこの嵯峨野の竹林、環境庁が選んだ、「残しておきたい『日本の音風景』、百選」の中に入っているのです。
いわゆる、サウンド・スケープです。それを楽しみにしていたのだけど、ちょっと残念だった。

これは私の勝手な考えですけどね、竹、ひょっとして一番綺麗に見えるのは、この冬の季節ではないかと思っています。
春になると、タケノコが顔をのぞかせる、それはそれで可愛いけれど、タケノコの季節から、それが大きくなる頃は竹の本体もかなり疲れてしまう。
だから、「竹秋」などと呼ばれるほどに、夏近くなると竹の葉も黄ばんでしまい、肌の艶もなくなり余り見られたものではなくなってしまう。
夏から秋はそれの疲れを回復させ、冬、竹にとっては一番充実した季節、そんな風に感じているからなんですけどね。
写真を撮ろうとしたら、この日はとても暗い曇り空、ソロソロ頭の上から白いものでも落ちてきそうな案配で、どうしてもフラッシュが光ってしまう。
実は、竹林の中は、まるで全体がエメラルドに被われているような、独特な色彩と、透明感があったのですけどねぇ。
もし次回この地を訪れるときは、三脚でも持ってこようかと思います。
うん、フラッシュを使わなければいい写真が撮れるかも知れない。

その竹林の中に、クヌギの丸太をそのまま鳥居に使っている、「野宮神社」があります。
「野宮神社」、天照大神を中心に沢山の神々が祀られ、縁結びと、学問の神様とされていますが、ここは平安時代、伊勢神宮へ仕える斎宮として選ばれた皇女が身を浄めたところです。

  

源氏物語、賢木の段にこの「野宮神社」を舞台にして、六条の御息所と、光源氏の別れのシーンが書かれてありましたが、そのイメージを持ったままでそこを訪れたので、神殿を囲っている玉垣が余りに鮮やかな赤で塗られているのを見て、妙なギャップを感じてしまいました。
思ったよりも、ケバ過ぎると言った感じ・・・・・・
しかし神殿の隣に、ちょっとした苔の庭があり、なかなか良い風情でした。

「野宮神社」を出てしばらく歩き、竹林の景色を堪能した頃、「常寂光寺」に至ります。
中に入れば、小早川秀秋が移築したと言われる、元、桃山城の客殿であった本堂なども見られたのですが、京都のお寺の拝観料、最近高くなっちゃって、今が秋なら多分、拝観料を払って入っていったと思いますが、冬の寒いときにモミジの名所を見る気にもなれず、入り口から写真だけ撮ってきました。

  

そこからほど近いところに「落柿舎」があります。
俳人の向井去来が閑居したところですが、去来のお友達に、あの有名な松尾芭蕉さんがおられます。
芭蕉さんも、この家を時々訪問しておられたそう。
「落柿舎」(らくししゃ)、実はこの私、ずーーっと、(ラクカキシャ)と思い込んでおりました、キャッ、ハズカシ!
この名前の由来は、ある日、木になっていた柿を売ろうとしていたが、前夜の大風のために、柿が全部落ちてしまった、と言う出来事から来ているそうです。

玄関から見ると、蓑と笠がぶら下げてある。
これが、主人在宅の印だとか。
じゃ、カンカン照りの日に出かけるときは、どうしていたんでしょうかねぇ。御本人がおられたら、聞いてみたかった。

「落柿舎」を後にして、「二尊院」へ向かいました。
このころから、ぼつぼつ降ってきていた雪が、とうとう本降りに、何しろ底冷えで有名な京都、そしてここはまさに山手ですからね、見る見るうちにその辺りがうっすらと白くなって来はじめていました。


この二尊院の総門は、伏見城の薬医門を移したものだそう。

二尊院の入り口から奥、真っ正面に「小倉山」が見えます。石畳の参道の両側には、楓と桜の並木があり、春と秋には、多くの人の目を楽しませてくれます。

参道が白壁の塀に突き当たった上に本堂が建っています。
このお寺、かつての応仁の乱で全焼してしまったそうですが、その後再建され、本堂は、重要文化財に指定されています。
「二尊院」の名前の由来となったのは、本堂の中央、向かって右に釈迦如来立像、左に阿弥陀如来立像が安置されていて、二体とも本尊として祀られているからなのですが、この寺の正式名称は、「二尊教院華台寺」といいます。

本堂の廊下を歩くと、床がキュッ、キュッと音を立てるので、また太ったのかと一瞬ドキーッ!!
ここの廊下はウグイス貼りになっている、との説明書きを見つけて、もう、マジに安心しました。
二体の柔和な顔をしている仏像をしばらく眺め、本堂を出るとそのまま小倉山の方へ・・・・・
脇道に入り、墓地の中を上っていくと、角倉了以、法然上人廟、そして田村三兄弟の御尊父、板東妻三郎さんのお墓などがあります。

  

法然上人廟は確かにそれなりのものでしたが、板東妻三郎さんのお墓、案外うちの実家のものと変わらないごくごく平凡なものでした。
有名人のお墓、まして、そのご子息達も有名人であれば、かなり大きなものか、それとも奇抜なものを想像していたのですが、そうではなかった。
却って、「田村家」の方々に親しみを覚えました。
そこから更に上、急斜面にへばりつくようにある、ごく細い道を上っていくと、「時雨亭跡」に行き当たりました。

「小倉山 峯のもみじはこころあらは いまひとたひの御幸またなむ  藤原忠平」

百人一首の中でこの地を歌ったものですが、「時雨亭」は、藤原定家が、この百人一首の編纂をしたところだそうです。
木が鬱そうと生い茂り、雪のせいでかなり暗く感じられたのですが、昔は下を見下ろすと、いい眺めを見渡すことが出来たかも知れません。
緑がかった大きな石の向こう側に、丸い礎石のようなものが一つありました。

小倉山を下山して、さていよいよ「化野念仏寺」へ・・・・・・・・
実は、この辺りでソロソロお腹も空き始め、尚かつこの寒さ。
念仏寺まで、全く誘惑に満ち満ちた道中を行く羽目になりました。
京都は、とにかく水の質がよく、ましてやお寺が多いとなれば豆腐料理がとても有名。

土産物屋の看板に混じって、やたらに目に付いたのが「湯豆腐」!!の看板。
こんな観光地で食べる「京料理」、ものの割りに高くつく場合も多いのよね。
ましてや給料日前の、チョー貧乏なこの私、これは避けて通るしかないわけで、
しかし、足元は、だんだん積もりだした雪がシャーベット状になって、ビチャビチャしてくる、手は悴んでしまってカメラの扱いもままならない、そして、お腹がクークー叫びだす。
もう、タマリマヘンでしたぁ。
やはり、ここに来る日を誤ったか、などと、財布の中身を考えて、ほんの少しばかり後悔し掛けて、・・・・・・・・・・・
でもねぇ、こんな良い雪に出会うことは滅多にないわけで、それはもう、大変複雑な心境でございました。

「寒いヨー。」「冷たいヨー。」「ハラ減ったヨー。」「ひもじいヨー。」という煩悩が爆発する寸前、「念仏寺」に無事到着。
「念仏寺」、本名は、「華西山東慚院念仏寺」と言い、浄土宗に属します。
この地にお寺が建てられたのは、約千百年前、弘法大師が、「五智山如来寺」を開創され、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのが始まりと伝えられています。
その後、法然上人の常念仏道場となり、今に至ります。
この夥しい数の石仏、石塔は、約八千体有り、大昔より化野一帯に葬られた人達のお墓です。
何百年もの長い歳月、無縁仏となってあちこちに散らばっていたお墓を、明治になって地元の人々が協力してここに集められたとか。

その石仏達にカメラを向けると、
「この辺で、写真を撮らはったら、妙なもんが写ることがおます。」
と言う声が、
思わず振り返ると、タクシーの運転手さんが、観光客らしい熟年夫婦を案内しているところでした。
ところで、その「妙なモン」、この写真の中に写っているのかどうか。
もし何か変わったものを見つけられた方、メール下さい。

「念仏寺」を後にして、「直指庵」に足を向けました。
雪は止む気配もなく、土のあるところはとっくに白くなっていましたが、雪の積もりにくいアスファルト道路もそろそろ白一色に塗りつぶされ始めておりました。
ビチャビチャと音を立てていたところが、だんだんサクサクいい始め、歩いた後を振り返ると、、自分の付けた足跡が真っ白な中に黒く残っている。
今までそんな経験滅多にしてこなかったですからね、なんだかちょっと嬉しくなりました。
「念仏寺」から、「直指庵」まではかなりの距離がありましたが、その途中、ほんの少しだけ寄り道をしました。

ここ、どこか分かりますか?
などと言っても、すぐには分からないでしょうね。
瀬戸内寂聴さんのお家、「寂庵」です。
思ったより、こぢんまりした家屋で、いかにも平成の「庵」と言ったところでしょうか。
失礼かとも思いましたが、玄関先で写真を一枚撮らせていただきました。
まっ、「源氏物語」全10巻セット、予約までして買ったんだから、お許し頂けるでしょう。

その辺りから「大覚寺」の境内を遠くに見て、山手の方に上っていくと、「直指庵」があります。
いかにも隠れ寺らしい総門、藁葺きの屋根にくさが茂っていて、とても風情がありました。

  

「直指庵」、別名「泣き込み寺」
昭和37年に入寺した、広瀬善淳尼が、女性達の悩みを聞き、道を教えたことからそう呼ばれるようになりました。
悩める女性達の綴ったノート「想出草」が今でもあり、いつでも読ませて頂けるそうです。
それを記念して作られたのがこの観音像、まさしく、慈愛に満ちた、いい顔をしておられました。

このお寺も季節ごとにいい眺めを見せてくれるところですが、この日は偶然とはいえ一面の雪景色、寒さ、ひもじさを全く忘れるほど素晴らしい眺めを堪能していました。
このページのトップに据えた雪景色、あれも、ここ「直指庵」の境内の一部です。
この境内の奥に、この寺を再興した、近衛家に仕えた老女、村岡の墓があります。

この写真、決して心霊写真ではございませんので悪しからず。
ただ、私の息が写っただけです。だって、寒かったもんね。

「直指庵」から南に下がると、「大覚寺」

ちょっとイメージの違う写真を掲載しました。
しょっちゅう、時代劇なんかで登場する本堂、あれはどこへ行っちゃったの?
写真は?
などと思われた方々にネタばらし
実は、何度も言うように、給料日前のチョー貧乏な私。
京都のお寺の拝観料、だいたい500円は取られるんです。
で、拝観料を節約しようとして、横門から入っていくとこのような景色が広がっていました。
今まで、奇跡的に例の「迷子!!」にはならなくて、「自分で自分を誉めてあげたい」気分になっておりましたが、さに非ず、最後の最後にやっぱり迷子(笑)
真っ白な雪のせいか、やたらに広い大伽藍のせいか、本堂がどこか分からなくなっちゃった。
境内を突っ切って、門前のバス停まで行こうにも、今自分がどこの辺りにいるのかさえ掴めない。
ぐるっと一周すれば総門へ行き当たるだろうと歩いていたら、結局また元のところに行き当たっておりました。
ズルを決め込んだバチでも当たったかな、まっ、仕方ない。
結局は、そういう星の下に生まれちゃったと開き直るしかないわけでして、バス停までまた来た道を引き返し、この大きなお寺の外を行くことになってしまいました。
でも、面白いものを見つけましたよ。

このアパートのネーミング、さすがに禅寺のお隣さんですね。

ようやく「大覚寺前」のバス停を見つけだし、約20分後には車中でウトウト。
俄な大雪の為に、四条大宮までの京都特有の狭い道路は大渋滞、でもその代わりよく寝かせて貰いました。

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