トップ >一人歩き >あおい流「女の一人旅」 >秋の甲州路・諏訪

秋の甲州路・諏訪 (前編)


そろそろ恒例になり始めた、半年に一度の「一人旅」。
今回は秋も深まりだした信州を目指しました。
実は所用で2日前から東京まで出向いておりましたが、この日はグンと冷え込んだものの、さほどに天候も崩れず、散策には絶好の日和となりました。
「新宿」を9時ちょうどに出発する「あずさ53号」に乗り込むと、目指す「上諏訪」は11時30分着。
「上諏訪駅」で早めの昼食のつもりでお蕎麦を食べてきましたが、さすがに本場の信州そば、立ち食いそばでも侮れません、かなりの美味で、もう少しでお代わりを頼むところでした。

「諏訪神社下社」まで行くには、ここから普通列車に乗り込んで、次の停留所「下諏訪」へ行く必要があったのですが、さほど急ぐ旅でもなく、駅で荷物を預けるとすぐ近くにある諏訪湖畔を少々歩いてみました。

この日は月曜日ではありましたが、以前10日にあった「体育の日」が10月第2週目の月曜日に置き換わったこともあり、諏訪湖畔の公園には家族連れや観光客の姿がたくさん見られました。
亀や、白鳥の形をした観光船が行き交い、貸し出されている足こぎボートも多くは白鳥の形。
ここは、冬になると白鳥の姿がいっぱい見られるのでしょうか?
もしまた来ることがあるなら、今度は冬の諏訪湖も良いかも知れません。
冬に結氷すると、ワカサギの穴釣りも楽しめるそうで、
魚釣り大好きの私としては、一度やってみたい事の一つです。
それにアイススケートもできるらしく、うーん、長くスケートして無いなぁ。
湖畔をぶらぶら歩くと、諏訪湖間欠泉センターがあります。
温泉が出るのは知っていたけど、間欠泉があるのは知らなかった。
間欠泉の吹き出す時刻表を見ると、私が来る直前に湯が噴き出したばかりのようで、そう言えば、さっきやたらに大きな湯気が立っていたような。
惜しいことをしてしまったみたいです。
センターの前にある説明書きを読むと、ここの間欠泉の吹き上がる規模は世界最大級だとか。
ううーっ!!
やっぱり惜しいことをした!
次の吹き出しまでは、まだまだ時間が掛かる。
仕方ない、これは次来た時の楽しみにとっておくことに・・・・・・・・・・

この湖は日本でワーストテンの中に入っているほど汚れていると聞いていましたが、まさしくその通り。
所々、こんなに「アオコ」が発生していました。
「諏訪湖」から流れ出す水は、「天竜川」一本だけ。
でも、周囲の生活排水はどんどんと諏訪湖に流れ込んでいるわけで、せっかく空気の澄んだところだというのに、とってももったいないような気がします。
これは何も諏訪湖だけに限ったことではなく、我々の住んでいる町の中にも、至る所にゴミの山が築かれていますよね。
火のついたままのたばこの吸い殻を平気で捨てる人も、いまだに後を絶たない。
もう、とっくに考え直さなければいけない時期に来ていると思うのですが・・・・・・・
諏訪湖畔には「片倉館」という、大きくて、古風な洋館建ての公衆浴場があります。
これは、国産の絹糸の全盛時代、昭和三年に「片倉製糸」が建てた従業員のための福利厚生施設だったそうですが、今は一般の人に解放され、観光客でも気楽に立ち寄ることのできる温泉として役立てられています。
この隣には、諏訪市美術館があり、普段なら東郷青児やマチスなどと一緒に、諏訪湖底曽根遺跡の出土品なども展示されています。
実はこれを当てにしていたのに、この日に限って市民の書展があり、常設館はお休み。
何だかまた出鼻をくじかれた感じ。。。。。
まっ、しかたありませぬなぁ〜〜
時にはこんな事もある。

気を取り直して、もう一度湖畔に戻るとこんなのが・・・・・・・
これが、湖底で発見された「曽根遺跡」のいわばモニュメントです。
「曽根遺跡」というのは、今から約一万五千年から九千年ほど前にあった、縄文時代の遺跡です。
縄文時代と言っても、どちらかというとまだ草創期に入ったばかり、後期石器時代という方がいいかも知れません。
この遺跡が発見されたのは、明治三九年に石鏃が引き上げられたのがきっかけになったそうですが、数種ある石鏃はとても美しい形をしているそうで、やっぱり見たかったなぁ。
この遺跡が湖底に沈んだのは、断層活動による地盤沈下が原因だとか。
そう言えばこの諏訪湖や天竜川は、日本有数の活断層、フォッサマグナの真上にあります。
立て看板を見て、少々ですが、一瞬ゾクッといたしました。

諏訪湖畔を離れると、今度はちょっと山手に向かってみました。
急な斜面にある住宅地の一隅に、大きな岩がごろごろと転がっている小さな社がありました。

いくつ石が転がっていたんだろ?
大小取り混ぜて。かなりの大岩から、漬け物石程度のものまでゴロンゴロン。
大きなものは人の背丈の倍くらいはあったかな。
「児玉石神社」は、「諏訪下社七宮」のうちの一つだと言われています。
ここで初めて見た「御柱」、七年ごとの諏訪の大祭「御柱神事」で切り出されたものなんでしょうか。
ここまで来て、初めて「諏訪」に来た実感がわいてきました。

そしてその1時間後、私の立っていたのは「下諏訪駅」のターミナル広場。
地方へ行くと、その場所によって同じ旧国鉄、または、JRによって駅の様子がずいぶん変わってきますが、この「下諏訪」駅もずいぶん特徴がありますね。
さいきん、駅の写真もよく撮る事にしていますが、「下諏訪」という町の雰囲気を彷彿とさせてくれる駅舎でした。
駅の写真を撮り終えたら、まず地図を見て、今回も忘れずに持ってきていた磁石で方向を調べて・・・・・・
まずは「諏訪下社春宮」へ。

駅前通りを抜けると、さほど広くもない割にやたら交通量の多い道路に出ます。
この日もこの日とて、休日であるにも拘わらず、大型トラックがどんどん肩先をかすめていくようで、恐い、恐い!!
地図を見ると国道20号線。
これってもしかして、東京都内でも有数のよく混む道路と言われる「甲州街道」?
ろくな歩道もなく、少々びくつきながら5分も歩くと、大きな銅製の鳥居が見えてきます。
そこが「諏訪下社春宮」の参道入り口にして、「春宮大門」と言われているところ。

それをくぐって、大門通りをただひたすらテクテクと・・・・・
ここも案外交通量の多い道。
しかしこの道路、昔はこの辺りを治めていた下社の大祝、金刺一族を初め、多くの武将達が、「流鏑馬」の技を競って馬を走らせた、いわば馬場のような所だったそう。
しかし、今現在では車がやたら猛スピードで通り抜けておりました。
そういえばこの道路を走る車、どういう訳かスポーツカータイプの車が多い。なぜなんだろう?
約1キロくらい歩いた頃かな?
ちょっと変わった建造物に行き当たりました。

 「下馬橋」と言われている、この古風な建造物は、昔はここで馬や駕籠から降りて、かつて橋の下を流れていた「御手洗川」で身を清めたところの名残です。
今は道路の真ん中にどーんと放置されたように見える存在ですが、この「下社」ではもっとも古い建物だそうです。
俗に「太鼓橋」と呼ばれているこの建物は、室町時代に、鎌倉時代の様式を使って初めて建てられ、江戸時代半ばに修築されたものです。
この写真を撮った位置から橋に向かって左側は、溝蓋がしてあり、その上はアスファルトで固めた道路になっていますが、向かって右側(橋の陰になっているところ)は、清めの場所としてちゃんと残されており、七年ごとの「御柱神事」で、御柱曳行があるときは、御柱を清めるためにその上を渡すのが恒例となっているそうです。

ここが、「諏訪大社下社春宮」、ここまで来るのにずいぶん色々な建物の建て込んだ、そして交通量の多い通りを歩いてきましたが、「春宮」の前まで来ると鳥居から向こうの様子はまるで別世界のように、緑がうっそうと繁っているのが垣間見えました。


これはいったい何という木なんでしようか?
木の周りで何度も歩幅を計ってみましたが、この木の根本近くはなんと5メートルはゆうに超えるものでした。
境内には、このような大木が何本も生い茂り、一種、独特な幽玄さを醸し出しておりました。

  

これが、「諏訪大社下社春宮」拝殿。
拝殿の両側に、太くて高い柱が立てられています。
この拝殿、正式には「左右片拝殿」と呼ばれ、屋根が片切になっていて、後で立ち寄った「秋宮」よりも幅が短くなっていました。

「春宮」境内には、拝殿や神楽殿の他にも神事を執り行われる小さな建物があり、例えば「筒粥殿」。
毎年、一月一四日の夜から、一五日の早朝に掛けて下社特殊神事の一つである「筒粥神事」という独特の行事があります。
これは、神職がその建物の中心にあるいろりを囲み、四十四本の葦筒を、米と小豆を混ぜた粥と一緒に一晩掛かって炊きこみ、葦筒四十四本のうち四十三本でその年の作物の豊凶を、残りの一本で世の中全般を占うものです。

   

そのお隣は「子安社」、「諏訪大社」で祀られている「建御名方命」の母上をお祀りされていました。
昔から、お産の守り神と敬われ、この小さな祠のような神殿の前には、たくさんの底のないひしゃくが奉納されています。 
底のないひしゃくでは水がするっと通り抜けてしまうように、お産が少しでも楽になるようにと「安産祈願」の祈りを込めて奉納されていると言うことでした。  

「春宮」を通り抜けて裏から出ると、道路を挟んでちょっとした清流が・・・・・
その岸辺には、もう花の季節など終わってしまっているだろうと思っていたコスモスが、今を盛りに咲き誇っていました。

この清流「砥川」の川中に「浮島」と呼ばれる小さな島があります。
島の中央には「浮島社」と言われる小さな祠が祀られてあり、周りは木々がうっそうと繁っていて、ここも何だか気持ちがいいような、逆に厳粛な気分にさせられるような雰囲気の所です。
どんなに大雨が降って周りに大水が出ても、ここだけは絶対に流れることがないとのこと。
下社七不思議の一つとしての昔からの言い伝えが、この浮島に残っています

この「砥川」沿いの小道からほんの少し入ったところに、「万治の石仏」と呼ばれる、何ともユニークな石仏が祀られています。
故・岡本太郎画伯が絶賛したことがきっかけでとても有名になった石仏ですが、この石仏の彫られたのはかなり古い時代で、「万治三年」(1660年)の銘が残っています。

この石仏にも、実は不思議な伝説が残されており、城郭建造のための建築材料として利用するために石工がノミを入れたところ、血が噴き出したと言われています。
そばの立て看板には、そのノミの痕があると書かれていましたが・・・・・、フーム、だいぶ探したのですけどね、私にはよく分かりませんでした。

「諏訪大社下社春宮」と、その周辺の探索が終わると、さっき来た道を引き返し、また「甲州街道」の端っこをとぼとぼ歩いて「秋宮」へ
やっぱり、相も変わらず大型トラックが我が物顔に行き交い、とても恐い思いをしましたが、そのご近所に住んでいらっしゃる方々はどうしておられるんでしょうかねぇ。
私の感覚で言うと、事故の無いのが不思議というような、恐ろしげな道路でした。

そして、やっとの思いでたどり着いた「秋宮」
大鳥居の手前にあるちっちゃな池「千尋池」がまず目にとまりました。
本当にとてもちっちゃな池なのに何で「千尋」?
こんな名前の付いたいわれですが、・・・・・
今は蓋のされてしまった「御手洗川」がこの池に流れ込み、昔はとても大きな池だったそうです。
そして、この池の底は遠く「遠州浜松」(静岡県浜松市)の近くの海までトンネルのように続いているのだそう。
そこから「千尋池」という名が付いたのだと言われています。
その名の付いたのもかなり古い時代のようで、
この神社に伝えられている、古い神楽歌にもその名前が登場しています。
「諏訪の海 大和の浜よりよする波、千尋の池に重(しき)の浪立つ」

そしてやはり、ここの社殿の両脇には、まるでそびえ立つような大きな御柱が建てられていました。
この社殿の手前には、狛犬を両脇に置いた大きな建物があります。

「神楽殿」です。
神楽殿とは読んで字の如く、神様に楽しんで頂くための舞や音楽を奉納するところですが、この日は何故だか参拝者が後を絶たず、ずんとお腹に応えるような低音でなおかつ大きな太鼓の音が続いていました。
参拝していらっしゃる方々の頭の上にある注連縄。
出雲大社にあるものとそっくりな形をしていました。
ここに祀られている「建御名方命」は、実は「古事記」によると、出雲大社の主で「大国主命」の次男だと言われています。
だからなんでしょうか。
こんな所に来て、「出雲大社」型の注連縄を見ることになるとは思いも寄りませんでした。
この注連縄は、長さが13メートルもあって、出雲大社型の注連縄のなかでは日本一長いものだそうで、重さも推定500キロ。
かなり重いものです。
実はこの注連縄を作るのは、出雲の方々なんだそうで、地元の下諏訪長の氏子達がお金を出し合って、出雲の注連縄保存会の方々にこの諏訪まで来て作って頂いているのだそうです。

「秋宮」のなかにしばし佇み、杉木立のなかでフィトンチッドを思い切り吸い込んでから、今度はその周辺の町中を見て回ることにしました。
やたら交通量の多い今の「中山道」こと、国道142号線を避けて、旧市街地の中に入っていくと、これがかつての中山道なんでしょうね。
かなり急な坂道ではありますが、何となく風情のある細い通りに出会いました。
この道をどんどん上っていくと・・・・・・・・・
あれれ?
いつの間にか、段々畑のど真ん中。
そろそろ太りだした大根、ネギや、まだ葉の巻き始めていない白菜の間を通っていくと、こんな所に道祖神。

男神と女神が仲良く抱き合っている間にある「おじゃま虫」、何だろと思ってよく見ると、やっぱりおじゃま虫。
土蜂の巣がこんな所にありました。
なおも急な斜面を登っていくと、何だかとても暗い道。
これ以上先へ進むと、「迷子」になりそうな気配もするし、とりあえず写真だけパチリ。

まるで獣道みたいな、土の見えているところは巾30センチにも満たない細い道。
ここがかつて多くの旅人が行き交い、京の都から大名達の元に輿入れするために数多くの公家の令嬢達が、江戸を目指して通った街道。
有名なところでは、皇女「和宮」もこの道を通られたそう。
この「旧中山道」は、「東海道」とは違い、山道がずっと続いていて旅をするにはかなり労力を要した代わり、「箱根の関所」に代表されるような厳しい関所も数少なく、「大井川の渡し」で川止めになって立ち往生するようなこともないので、身分の高い公家の姫君が輿入れする時によく使われた街道だと聞いています。
そして、これがその「中山道」のなれの果てでございます。
昔はもっと、賑やかで人通りもある程度あったのでしょうが、当時の一級メインロードも使われなくなると、こんなになっちゃうんですねぇ。
「旧中山道」を誰かが、「いちにちじゅうやまみち」と読んだと聞いたことがあり、大受けした記憶がありますが、こんな景色を見ると、全く、なるほどと思ってしまいました。
ふと、後ろを振り返ると、私の目の前にはこんな光景が広がっていました。

これが「下諏訪」の町。
左にあるこんもりした森が、さっきまでいた「諏訪大社下社秋宮」のあるところです。
人家がぎっしり建て込んでその向こうに、「諏訪の湖」が周りの山に守られるように白く光っておりました。
そろそろお日様が傾きだし、諏訪湖の方から吹いてくる風が急に冷たく感じ始めました。
ここにもコスモスの可憐な花が微かに揺れていました。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送