初秋の東北路 裏磐梯編


私が福島にやって来ての二日目、会津若松から郡山に向かう途中の猪苗代で下車し、五色沼に向かいました。
この近辺には温泉もわき出し、何よりも火山活動によって作られた風光明媚な湖沼地帯に心惹かれたからですが、生憎この日は台風が近づいてきているとかで曇りがち。
前日は綺麗に見えていた磐梯山も、今日は低く立ちこめた雲がじゃまをしてはっきりとは見えてくれない。

列車の到着時刻の2分程後に、裏磐梯の方角に向けて出発するバスがありますが、土地不案内の私にとってはそのバスがどこのバス停から発車するのかさえ分からないため、乗車することを完全に諦めていたのです。

が・・・・・・・・・・・・・

猪苗代駅の改札を出、サービスで置かれている地図を一枚貰ってバスターミナルを探すために駅から一歩外に出ると、今まさに裏磐梯行きのバスが駅の前を通り過ぎるところでした。
 
ああ、やっぱり間に合わなかった.。o○

次のバスが来るまでの1時間30分をどう過ごすか・・・・・・・

それを考え始めたとたん、私の目の前でバスが停まってくれたじゃありませんか!!!
駅の前にはバス停なんか無いんですよぉ!
バスの運転手さんが私に手招きをして、

「お客さ〜ん!五色沼に行くんでしょ?!乗って行きなさいよ〜!!」

うわーっ!! やったーぁっ!!!
もう、感謝感激でございますぅ (T∇T) ウウウ

噴火百年忌供養の碑

約30分程バスに揺られて五色沼入り口のバス停で降りると、そのすぐ傍に「噴火百年忌供養の碑」
えっ!?
それもさほどに古びていない。
人が亡くなる程被害のあった噴火って、かなり最近の事みたい!

お恥ずかしい話、この地形が火山の噴火のために出来たと言うことは知っていたのですが、それ以上のことは何一つ知らなかったわけで・・・・・・

で、帰宅してから泥縄式にそこらあたりを少し調べてみたのですが・・・・・

五色沼が出来た原因になった火山の噴火は、案外最近のことで、明治21年(1888年)の大噴火が元になっています。

この裏磐梯の南側にそびえる磐梯山は、昔は大磐梯・赤埴山・小磐梯の三つの山が重なり合うように、つまり、ほころび始めたチューリップのつぼみを連想していただければいいのですが、山が重なり合って出来た、遠目に見るとあたかも富士山のような形をした、とても姿の綺麗な山だったようです。
太古の時代より、何度も噴火を繰り返して、三つの山頂のある山を、この辺りの人々は、「鬼の山」または「神の山」と恐れ敬い、別名「会津富士」とも呼ばれる程の端正な形を愛でては、「宝の山」と民謡の中に詠み込む程に愛おしんでこられたのです。

毘沙門沼

この磐梯山と、その北側に連なる吾妻連峰の間に広がる高原地帯は、磐梯高原、または裏磐梯と呼ばれています。

磐梯山の南にある猪苗代湖の側から見ると、ゆったりとなだらかな傾斜があり、曲線の柔らかさはとても女性的で優しい姿をしている磐梯山も、こちら側から見ると、まるで別の山でも見るように、うってかわった荒々しい姿をしていました。

今から約120年程前の明治21年、7月15日

この日はとてもお天気が良く、雲一つ無い青空が広がり、西から吹く風も爽やかで早朝から田に出て作業をするにはもってこいの日和だったそうです。

外で農作業をしていた人々が一旦帰宅し、そして家では学校へ行く支度を終えた子供達が朝餉の食卓を囲み始める、午前7時過ぎ
良いお天気の筈なのに雷のような音が辺りに響き渡りました。
食卓を囲んだ人達は、お互い顔を見合わせましたが、誰かがどこかで雷でも鳴っているのだろうと言ったため、また何事もなく朝餉が和やかに続くことになます。

しかし、そろそろ朝餉が終わりかけるその30分後に、今度は大きな地震がこの辺りを襲いました。
立っていられない程の大きな揺れ、いろりに掛かった鍋が大きく揺れて、こぼれた汁のために灰神楽が立ち、台所では食器類の収めてある水屋がひっくり返り、頭の上からは埃が舞い落ちて、家の中にいた人々は慌てて外に飛び出していっただろうと思われます。

赤沼

家の外に避難した人々が落ち着く間もなく、何度も大きな揺れがこの辺りをおそいました。

そして、7時45分。

磐梯山を形作っている三つの山のうち、小磐梯の頂上が水蒸気爆発によって破裂し、噴煙を上げ始めました。
すぐ麓の村々には火山弾なども飛んできたと思われます。

ごく初めのうちは噴煙は小磐梯の頂上からまっすぐに立ち上っていたのですが、しかし、その後火山の爆発は20回程続き、爆発の度に大きな音が辺りに鳴り響き、そして猛烈な激震が人々を襲いました。

そしてとうとう最初の爆発があってから1分後。

山の中で起こった大爆発のために小磐梯そのものが吹き飛び、たちまち恐ろしい程の高温の噴煙が磐梯山の北側に吹き出していったのです。

人々は最初の爆発を見るとすぐに、取る物もとりあえず、家の中に戻って貴重品などや身の回りの物をかき集めると、どこへ行く宛など考える間無しに慌てて避難しようとしたに違いありません。

みどろ沼

しかし、それも虚しくそこにいた人々は一瞬のうちに高温の疾風により吹き飛ばされ、そして焼け死んでしまわれたのでした。

それだけに留まらず、その爆風のあとを追うかのように小磐梯を形作っていた土石が岩屑流を起こして流れ出し、磐梯山の北側を埋め尽くしてしまいました。

それまで、小磐梯の北側には長瀬川の谷が広がり、大昔から木地師、つまり塗り物の材料になる木を加工する人々の開いた秋元原・細野・雄子沢などの部落があったそうです。

これらの村々は数十メートルの土砂の下敷きになり、ほとんど一瞬の間と言って良い程の短い時間で全滅してしまいました。

小磐梯の崩壊した容積は約12億立方メートル、重さにして約30億トンくらいのものであると概算されています。
これだけの大量の土石が瞬時にして崩壊・飛散したのだから、その現状は目も当てられなかっただろうと思います。

山の南側は大磐梯・赤埴山などによって塞がれているので、北の方に向かって崩壊、泥流は長瀬川に沿ってあたかも川の急流のように流れだし、下流に激流のように襲いかかっただけでなく、上流にも溯流し、桧原村に達したそうです。

長瀬川の下流約4.8キロメートルの地点で最初に蒸気の騰昇したのを見てから、もう6分から10分程で泥流が到達しているというから、時速は28から77キロメートルに達していたと算出されています。

竜沼

当時の模様は・・・・・

当時の実況の要領は、本日は西北西の微風ふき天気快晴雲を見ざるほどにて、別に暑気も強からず、朝7時頃よりはるかにいんいんたる鳴動を聞きしかば、是は遠雷の響きならんと思い居りしに、暫時の後すこぶる強き地震あり、続いて激烈なる震動起り、その最中に一層激しき音をなし、小磐梯山より一道の煙柱状をなして立昇れり、
・・・・・・これを遠方より見しという者の言に、一旦柱状を成したる煙は傘のごとく広がり四方に漂蔓せしが、この時はその高さ少なくも大磐梯山の3、4倍に達したり


・・・・・と、このように生々しい記録書として残されています。

磐梯山の噴火によって吹き上がった噴煙の高さは、上空6000〜8000メートルにも達し、折からの西風に吹きながされて、磐梯山の東側に大量の火山灰を降らせました。
その規模も半端なものではなく、四方が真っ暗闇になる程のものすごさ。

近年にあった、島原の雲仙・普賢岳噴火のことはまだ記憶に新しく、リアルタイムでテレビの映像を通して全国にその様子が伝えられましたが、そのインパクトの強かった映像のお陰で火山の噴火の恐ろしさをまざまざと肌に感じました。
しかし、この磐梯山の噴火はそれよりもまだ数十倍もの規模の大きさで、周辺に大きな被害をもたらしました。

この噴火によって、461人もの尊い命が奪われたということですが、亡くなられた方々の多くは遺体を掘り出すことも出来ないまま、今も地下十数メートルのところで当時の様子そのままに眠っておられます。

弁天沼

周辺の村を襲ったのは、磐梯山の噴火そのものの被害だけには納まりませんでした。

岩屑流によって長瀬川と桧原川の二つ川がせき止められてしまったために、川の水がたちまちあふれ出し、周辺の村々は大洪水にも襲われることになりました。

普通なら洪水が起こっても時が経てばいつしか水も引いていくのですが、この場合に限っては水位はどんどん増すばかりでいっこうに引く気配もなく、桧原村などは火山活動による直接の被害はあまり無かったものの、住人達は村を捨てて他の場所に移転しなければならなくなりました。

今でも、桧原湖の水面から神社の鳥居や墓地の墓石などがかいま見えるときがあるそうです。

この裏磐梯一帯にある桧原湖、秋元湖、小野川湖の3つの湖と五色沼、そして、約300程ある沼はすべて、小磐梯の土石が川をせき止めたときに作ったものです。

その後、磐梯山の噴火に刺激されたように、磐梯山噴火の5年後には吾妻連峰の一切経山が噴火し、死者2名、そしてまたさらに7年後には安達太良山が噴火をして72名もの死者を出す大惨事になりました。

磐梯高原は昭和25年になって、山形、新潟、そしてここ福島の3県にまたがる日本で3番目に面積の大きい国立公園、「磐梯朝日国立公園」に制定され、四季折々に違う表情を見せてくれる、豊かな自然にはぐくまれた風光明媚な土地柄と、そして至る所にわき出している温泉のお陰で、今や年中観光客の絶えないリゾート地になっています。
大自然の作った、さながら宝石箱のようなこの湖沼地帯は、このような大災害の上に出来ているのだと思うと、何とも複雑な思いがします。

私の立っているその地下深いところに多くの犠牲者が眠ったままになっていることを知るにつけ、この方達の冥福を祈ると共に、この美しい自然を守っていくことこそが、我々にとって、亡くなられた方々に対する最善の手向けになるような気がいたしました。

るり沼

この日は、台風がすぐそばまで近づいて来ているとかで、朝からやたらに寒く、空もどんよりと曇って、今にも泣き出しそうな案配でした。

普通、一般に湖や池の水が青く見えるのはたいてい空の色を反映しているからですが、どんより曇った空の色と対比して、五色沼の色の何と鮮やかなこと!!

バス停のすぐ傍にある「噴火百年忌供養の碑」の横から五色沼ハイキングコースが設けられています。

そのコースに沿って歩くと、真っ先に毘沙門沼に行き当たります。
五色沼の中では、少し大きい部類に入る沼ですが、大きさはさておいて、その色合いに驚かされました。

エメラルドをそのまま溶かして流し込んだような・・・・それ以外の形容は思い浮かびません。

その次ぎに見えるのが、赤沼。
今日の赤沼はさほど赤くはなく、どちらかというとコバルトブルーに近い色合いの方が強かったのですが、夏の間水位が下がると、水の色が鉄さび色になるそうです。

みどろ沼、名前が現しているように水位が浅くて泥が水面近くまであるような沼ですが、泥の質がそのまま水の色に作用して、今日見た沼の色はまさにトリコロール!!
淡いパステル調のエメラルド色と、深いサファイアブルー、その間に銅色の帯があり、自然に出来た風景とはとても思えないものでした。

青沼

その後も、天候や見る角度によっては青黒くて青龍の鱗の色を思わせるような竜沼、パステルカラーに近い、どちらかというと青白く見える弁天沼、深く透き通ったサファイアブルーを思わせるるり沼、まるで快晴の青空をそのまま封じ込めたような青沼、濃いグリーンが神秘的な柳沼へと続きます。

このハイキングコースの両端近くには駐車場も完備していて、近隣の人達も気軽にハイキングが楽しめるようになっています。
でも、あまり気軽すぎてもねぇ。

私も近年になって、結構あちらこちらを歩いていますけど、有名な観光地にはたいてい一人や二人は、ちょっと勘違いしているような人を見受けられます。

いくら土産物屋が近くに軒を連ねていて、駐車場が完備していても、大自然を主役にした国立公園では、遊歩道を全部舗装してあるなんて事はまずないですからねぇ。

この日も一名、
「こんな道、ヤーだぁ!」
なーんて.。o○

柳沼

 ←こんな道がずっと続いているわけで、確かに歩きにくいけどねぇ

でも、ピンヒールのミュールで来ることはないと思うんだけどぉ(苦笑)

五色沼ハイキングコースから見える沼の写真を、順を追って載せてきましたが、沼の色もさることながら、緑に覆われた辺りの景色も素晴らしく、もし余裕があるなら毎年でもここを歩いてみたい程です。
でも、この景観を作っている森や林は自然に出来たものではないんです。

磐梯山が噴火した後、数年経って山が落ち着いても、荒れ果てて緑のないむき出しの大地はそのままでした。
今、現在こうしてフィトンチッドを吸い込み、マイナスイオンの中で心身共にリフレッシュ出来る環境になったのは、、この荒涼とした大地に自然を蘇らせようと生涯をかけて努力された方がおられたからです。

「ながきよにみじかきいのち五十年ふんかおもへば夢の世の中」

これは、遠藤現夢という方が詠んだ歌で、遠藤現夢は、磐梯山の噴火によって荒廃した裏磐梯を、数々の困難と障害を乗り越えて松の植林作業に取り組み、今の緑豊かな高原の景観を蘇らせた人物です。
歌碑は五色沼遊歩道柳沼と青沼の間の道から約350m離れた所にあり、周りには現夢墓石と現夢翁略傳碑もあります。

 歌碑の向こうに、高さ、約5メートル余りもの大きな岩があります。
これは、磐梯山の噴火の時にここまで飛んできたものと思われますが、遠藤現夢夫妻のお墓はこの大岩の下の円で囲んだ中にひっそりと立てられていました。

五色沼ハイキングコースの終点から車の走る通りを渡ったところに、レストランや土産物屋が建ち並び、その前に桧原湖が広がっています。

ベンチに腰掛け、森の中にいる間中ずっと我慢していたたばこに火を付け、ここでしばし一思案。

(;-_-;) ウーム

どうしよう・・・・・・・
どっちにしよう・・・・


蕎麦にするかラーメンにするか(自爆)

会津若松から猪苗代までの沿線に広がった蕎麦畑を眺めて、「うまそーっ!」なんて思った人は多分、私だけ・・・・・・でしょうな。
この辺りのラーメンと言えば「喜多方ラーメン」、会津市の北方、喜多方で作られたラーメンが全国的に有名になっていますが、会津蕎麦も捨てがたい。
太平洋側の海岸に沿って台風が近づいていたせいでこの日は前日とうってかわってとても肌寒く、最高気温は20度を切っていて大阪のような、猛暑がやっとゆるんだような所から訪れた私にとってはかなり堪えます。
こうなりゃ、蕎麦でもラーメンでもどっちでも良いから、とにかく暖まれ物をと目の前のレストハウスに飛び込んでいきました。

お腹がいっぱいになって体も少し温まると桧原湖の遊覧に出かけました。

 ←こんなのに乗りたかったですけどねぇ、チャーターだし、好きなところへ連れて行ってくれるし、おまけにガイドさん付きだし。
でも、私の財力ではどだい無理。

 ←こういうのもあったけど、私にピッタリのかわいらしさ(自爆)
でも、私の体力ではこれをずっと漕いで湖の反対側まで行くのは絶対に無理。

仕方ない・・・・、今回はこの大型遊覧船のお世話になりました。

桧原湖の遊覧は、約25分程で湖をほぼ半周してくるのですが、湖の中から見る辺りの風景は、陸から見るのとはまた違った風情があります。

   

ただ、やっぱり台風が近づいている影響なんでしょうか。
朝から肌寒くてどんよりと曇っていましたが、お昼を過ぎた頃にはどんどん暗くなってきて、風さえも心持ち強くなってきました。
前日はノースリーブのTシャツ一枚でさえも暑く感じたのに、今日のこの天候の変わり様!
船に乗り込むと、人少ななのを幸いにリュックからゴソゴソとセーターを取り出し、今日着ていた長袖シャツブラウスの上にそれを重ね、その上からウインドブレーカーまで羽織る始末。

船の窓が開いていたせいで、湖上の遊覧から帰る頃にはまた体の芯から冷え切ってしまい、陸に上がってまた一休み。

そう言えば、今回の旅行はさほどにリッチなわけでもないけど、何だか食べてばかりのような・・・・・・
家に帰ってから乗る体重計が怖いぃ (∋_∈)

このお椀に入った緑色の液体。
一見お抹茶のように見えますが、これは枝豆で作った「ずんだ汁粉」
小豆のお汁粉も好きだけど、ちょっと珍しくて食べてみました。
うわぁーっ!枝豆の味がしてるぅ!(当たり前)
ほんのり甘くて、それでいてサッパリしていて美味しかったです。

一休みの後は、この遊覧船乗り場から1キロ程の所にある「磐梯山噴火記念館」まで行ってきました。
記念館の一階は、明治21年の大惨事につながった、磐梯山噴火の資料がたくさん展示されていて、当時の様子が生々しく伝わってきます。
二階では、磐梯山以外の火山の紹介や、世界で初めて作られた中国の地震計などがあります。
そして三階が展望塔
ここから真南の方角から磐梯山が見えるはずなのですが、私が展望塔に登ったときは雲が低くたれ込めていて、裏磐梯の素顔を見ることは出来ませんでした。
ここでウロウロしているうちに、そろそろ夕方近い。
辺りはまだ明るいけど、すぐに終バスの時間になってしまう。
記念館のすぐ前のバス停にまで出ると・・・・・・・・・・・・
見えた!!


裏磐梯

山肌を荒々しく削り取られた、裏磐梯の姿がすぐそこにありました。

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