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春の吉野路


今年の正月明け、メル友の一人から、
「吉野の桜を扱った旅行のガイドブックの写真が余りに綺麗すぎて、どうも脚色されているような気がする。
出来れば吉野の桜をカメラに収めてきて欲しい。」

と、このような依頼のメールを頂きました。

その方は、かなり遠く離れた地にお住まいなので、当然吉野まで出かけようとすると大変なのですが、比較的近くに住んでいるこの私、今まで桜の季節に吉野へは行ったことがありませんでした。
それでそのメールを良いきっかけに、生まれて初めて吉野の桜を見る機会を作ることが出来ました。

4月14日、大阪地方は晴れのち曇り、降水確率は30%という予報が前日出されておりました。
という事は、奈良県南部の山岳地帯、降水確率はもっと高くなりそうな気がして、いつもよりかなり早めに家を出発。
9時ちょっと過ぎには「吉野」の駅に到着しておりました。
その時点では当地は快晴!
ただ驚いたのは、もの凄い人ごみだと言うこと。
始発駅から電車に乗り込んだのに、ずっと立ちっぱなしでした。
特急に乗って行こうにも、肝心の特急券は売り切れ!
隣のホームに停車していた特急がガラガラのまま出発したのを見たときはちょっとばかりむかつきました。
特急券、ほとんど旅行会社に抑えられていたんです。

まっ、家を出たのがかなり早かったし、慌てて行くほど急ぐ旅でも無し、電車に乗る時間が長い分、不足していた睡眠時間を立ったまま少し取り戻しておりました。

「吉野」と言うところ、役行者が修験地と定めた地という以外に、古くから、歴史上に名高い人達が数多く訪れたところです。
かの天武天皇、兄の天智天皇から謀反の疑いをかけられることを避けるため、この地にしばらく隠棲していました。
源義経、兄、頼朝の差し向けた追ってから逃れるため、ここで静御前と涙の別れを、
その他にも、持統天皇、後醍醐天皇、大塔の宮、楠正成の息子の楠正行、西行法師、松尾芭蕉、弘法大師、豊臣秀吉・・・
色々な人達がこの地を訪れました。

駅に降り立つと、さすがに大阪よりは気温が低いと感じましたけど、空気が澄んでいるだけにかなり日差しがきつく感じました。
先ほども書いたけど、それにしてもすごい人混み、駅前など、まるで新宿アルタ前と変わらないですって。
さすがに日本一の桜の名所なんでしょうね。
「下の千本」「中の千本」「上の千本」そして「奥の千本」、数を合わせると約3万本以上の桜の木があると言われていますが、下から奥に向かって、少しずつ時期を送らせて桜が咲き乱れる姿は壮観だと言われています。
この人混みは、まさにみーんな桜目当てに来た人達ばかり、たった一日で吉野町に住む人達の数倍の人達が押し掛けちゃうんですね。
さすがだわ。

駅のある辺りが、「下の千本」の取っ掛かりになります。
すぐそこにロープウェイがあって、「下の千本」の中間地点まで登っていくのですが、今回は、ロープウェイの利用はしませんでした。
何しろ、上の駅まで歩いて登るのにたかだか20分くらいのところ、ロープウェイ乗車の待ち時間は、約2時間!!
時間が勿体ないってば。

ロープウェイを使わないかわり、「七曲坂」と言うくねくね曲がった急勾配の道を登っていきますが、その出発点がすなわち、大峰山へ修行をしに行かれる方々の出発点でもあります。
その坂を上りきったところに、ロープウェイの到着駅があり、金峰山寺(きんぶせんじ)につながる参道が開けています。
その参道の入り口に、金峰山寺の総門に当たる、黒門があり、昔は、公家、大名であっても、この門から先は、槍を伏せ、馬を下り、駕籠から出て歩かなければいけなかったそうです。
道の両側は、旅館や土産物屋がびっしりと軒を連ねていて、この道を行く人に土産物の試食品などを配っていました。
あれ、片っ端から全部貰ったら、かなりの量になっていたかも・・・・・弁当代浮いたかも知れない(笑)。
吉野と言えば、葛、だからくずきりやゴマ豆腐、当然、桜の塩漬けも、そして柿の葉寿司、焼き栗などもいっぱい。
食べ過ぎたら、弘法大師が考案したと言われる「陀羅尼助丸」

それに、この辺り、温泉が出るんですね、知らなかった。
「日帰り入浴できます」という看板が、ほとんどの温泉旅館の前に掲げられていました。
着替えを持ってくりゃ良かったかな。

そういうものを横目で眺めながら歩いていくと、銅鳥居(かねのとりい)という物に出くわします。
まさしく読んで寺の如く、銅で出来た鳥居、金峰山に行く修験者の発心門とされていますが、奈良時代に建造された東大寺の大仏さん、それを作った際に余った銅でこの鳥居が作られたという伝説が残っているそうです。

その鳥居をくぐると、いよいよ金峰山蔵王堂が見えてきました。
これこそが、吉野山のシンボルにして、日本に存在する木造建造物の中では、東大寺の大仏殿に次いで大きい建造物だそうです。
下から登っていくと、まず大きな仁王門が迎えてくれます。
その仁王門をくぐると、背中合わせに蔵王堂があります。
蔵王堂は、役行者ゆかりの修験道の根本道場で、国宝に指定されています。
まるで圧倒されるほどに威容を誇るこの建物、カメラに収めるにはかなりの苦労を要しました。

とにかく、デカイ!

そしてこの境内の中、裏門に当たる近くに、後醍醐天皇の皇子、大塔の宮が家来達と最期の酒盛りをした場所が残されています。

金峰山寺の裏門から外に出て、土産物屋の建ち並ぶ参道をなおも行くと、「勝手神社」というお宮があります。
その辺りがちょうど「中の千本」に当たる地域。

この「勝手神社」何時できたのかは定かではありませんが、兄の天智天皇から謀反の疑いをかけられるのを避けるために、この吉野で隠棲していた「大海人の皇子」が、この神社の社殿で琴を弾いていると、天女が降りたって、五節の舞を舞って、皇子の心を慰めたといわれる伝説が残っています。
そしてまた、源義経の愛妾、「静御前」が頼朝の兵につかまり、この社殿で、頼朝軍の戦勝祈願の舞を強いられたという言い伝えも残っており、その舞塚も残されています。
しかし、この静御前という人、すごいですねぇ。

よしの山峯の白雪踏みわけていりにし人のあとぞ恋ひしき
しづやしづしづのおだまき繰り返し昔を今になすよしもがな

鎌倉の鶴岡八幡宮で、舞を舞いながら、こんな歌を歌ったと言われていますが、頼朝の目の前で舞を舞うなら、我が命惜しさに「鎌倉万歳」の舞でも舞うかと思えばさにあらず、義経を恋する歌を歌うなんて、すごい!!
囚われの身になってもまだレジスタンスを通すなんて、なかなかできるものじゃ無いと思いますよ。
ここで感動しついでに、しっかり休息をとって、更に「上の千本」を目指しました。

実は、この日からちょうど一週間前、同僚がこの吉野を訪れていたのですが、彼女の報告によると、まだ蕾はほころびかけたばかり、見頃まで後十日は必要だろうと言うことでした。
それが、その後の急激な気温の上昇で、ここ吉野の桜もあっと言う間に満開になり、それがテレビのニュースで放映されていました。
で、その翌日は、皮肉にもかなり強い雨が降り、そのせいでこの辺りの桜はもうほとんど散ってしまい、すでに見頃を逸していたわけです。

本当ならこの辺りでもう、お弁当でも拡げて、食事が終わったらUターン、風呂でも入って帰るところでした。
何しろ人が多すぎる、桜を見に来たつもりなのに、ずーっと人の頭ばかり見せられてちょっと気分的にお疲れ気味。
でも、せっかくここまで来たんだから、やっぱり桜は見たい。
皆同じ事を考えているのか、人の列はずっと先まで続いていました。

この辺りから土産物屋さんの数はかなり減り、ところどころに休憩所のような物が設けられておりました。
道の勾配も険しくなり、いつものように早足で歩いてしまうとすぐに息が弾んでくる、まさしく山に来たんだという気分になります。
「上の千本」の入り口に「竹林院」というお寺があり、ちょうどそこに「奥の千本」へ向かう臨時のバス停がありました。
マイクロバスが数台、別の林道を使って乗客を「奥の千本」までピストン輸送していたようでしたが、このバス停で並んでいる人の人数も半端じゃなかった。
後から後から並ぶ人ができて、とてもさばき切れているとは思えなかったです。
メガホンを持った係員が、後一時間待ちだと叫んでおられました。
「竹林院」、周囲に人が多すぎて、寄り道どころか、写真も撮ってこなかったけど、かなり由緒のあるお寺だそうで、弘法大師が開基だとか。
庭園も見事だそうで、行って見りゃよかった。
そのもの凄い人混みをかき分け、くぐり抜けて、少々急勾配の道を登ると、桜展示園という看板が目に留まりました。
何だろうと入っていくと、この吉野にある数種の桜が植えられていて、残念ながら花はほとんど散っていましたが、その奥まったところに、鎌倉、中先代の乱に乗じて殺された、後醍醐天皇の第一皇子、護良親王「大塔の宮」のお墓がありました。

そこから更に登っていくと、「上の千本」全体を眺めることのできる場所に出ます。
それまでずっと思っていたことですが、いくら観光地化されたとはいえ、そしても道も舗装されているとはいえ、やはり山は山、山の歩き方は知らなくても、山の恐ろしさを全然解っていない人が多すぎる。
一番感じたのは、驚くほど沢山の人がくわえ煙草をして歩いていることでした。
そしてずいぶん無造作に煙草の吸い殻をその辺りに捨ててしまう。
山って、一般の人が思っている以上に火事になり安いんですよ。
私がこの吉野に行ったちょうど翌日、テレビのニュースで吉野山の「上の千本」近辺が山火事になったと報道されたのには、全くとても驚きましたが、しかし心の中ではさもありなんという気持ちもありました。
自然の中で遊ぶなら、その自然をもっと大事にすると言う気持ちを持って貰いたいものです。

「上の千本」の一番奥まったところに「花矢倉」と言うところがあります。
ここは、歌舞伎「義経千本桜」の舞台にもなったところですが、奥羽に落ち延びようとした義経を助けるため、家来がここで獅子奮迅に戦った末、あえない最期を迎えたところと言われています。
でもこの場所から見る桜、なんだか言葉にできないほどに見事なものでした。
画像ではとても限られた表現しかできないのが、残念です。

ここから100メートルほど行くと、「吉野水分神社」(よしのみくまりじんじゃ)があります。
元々は、水の分配を司る神が祀られていたそうですが、平安時代には子守の神様として祀られたそうです。

今の社殿は、豊臣秀吉が再建した物だそうで、桃山時代の建築様式を今に伝えています。
5月頃に行くと、スズランが真っ盛りとか、もう一度来てみたいです。

そしてここからがいよいよ「奥の千本」
神社の横の道を登っていくと約3キロほどのところに「西行庵」があるのですが、途中に「金峰神社」(かみのみたけじんじゃ)があります。

ここまでは、ごく普通のハイキングコースとも思われるくらい、傾斜角が急でも、結構楽に来られたのですが、ここから先がもう大変でした。
今まで舗装してあった道が急に険しい山道になり、そしてとどのつまりはもの凄い!
まるで絶壁のようなところに、狭い下り道がへばりつくようにありました。
そこから転げ落ちたら、まさしく一巻の終わり。
傾斜も急でホント一人で歩くだけでも大抵恐かったのに、エライ大渋滞になっているんです。
そろそろと進んでいくと、そこに大渋滞を作っている原因となる人物が一人、泣きそうな顔をして立ちすくんでいました。
「すみません、先に行って下さい。」
なーんて言われて、「ではでは、お先に・・・・」、なんて簡単に進めるところではないんですよね。
ふとその人の足元を見たら、な、な、なんと、サンダルばき!!!!
いったい何を考えているのやら・・・・・・・・・、オドロキ、桃の木、桜の木でごじゃりました。
仕方ない、ちょっと深呼吸して、できるだけ谷底を見ないようにして、その辺りの物を掴みながらそろそろと彼女とすれ違うと、ゆっくりと下に降りて行く。
そして約数十メートル。

着いたぁ!!

「奥の千本」
ああ恐かった!


すぐそこには、歌人の西行法師が約三年隠棲生活を送ったとされる、「西行庵」がありました。
本当にこんなところで三年も暮らしていられたんだろうか、とも思えるほどに小さなおうち。
しかしこの小さな庵の前から見る「奥の千本」の眺めは絶景でした。

曲線的でいかにも女性らしい形をした桜の木の向こうに、まるで相対するように直線的な樹形の「吉野杉」の林。
やっぱり、ここまで来てよかった。









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