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初秋の東北路 会津若松編


夏の間は最高気温が35度の日々が続いて当たり前などという大阪も、この頃なると気温も30度を切る日が多くなり、やっと一息つけられます。
すると、またもやムクムクと頭をもたげ始める私の放浪癖
今回は歴史の旅など放っておいて、温泉三昧なんて良いなぁ.。o○
温泉と言えばやっぱり東北地方に気が向いてしまう。

と言う事で
今回のターゲットは会津若松!

会津若松という街は、今から約600年程昔の室町時代に芦名直盛が城を築いてより、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明、そして徳川家光の腹違いの兄弟である保科正之と、めまぐるしく支配者が替わっていった土地でもあります。

前泊した東京から朝早い目の東北新幹線に乗り、郡山で磐梯西線に乗り換えるために駅のホームに降り立つと、ヒンヤリした風が迎えてくれるかと思いきや、この日はとても蒸し暑い日でありました。

その前々日の最低気温を見ると若松市内は12度という記録が残っていたので、大阪を発つ前日に慌ててウールのセーターなどを荷物に加えていたのに、何とも期待はずれ(苦笑)

郡山から会津若松までは快速急行で約1時間20分程度の旅になります。
その途中、猪苗代あたりまで来たとき、車内の放送で、会津磐梯山がとてもよく見えるとの事。
ここから見える磐梯山は「表磐梯」と呼ばれ、荒々しい姿の「裏磐梯」と違って、とても優しげな女性的な姿をしているとの説明がありました。
 車内から見た会津磐梯山、「表磐梯」の姿です。

そしてようやく終点の会津若松に到着。
うわぁ!
やっぱり相当暑いわぁ!

せっかく城下町にやってきたのだから、真っ先に足を向けたのはやはり鶴ガ城。
駅前のバスターミナルからは、一時間に4本程度の間隔で鶴ガ城に向かう乗り合いバスが出ています。
地図を確認しながらバスを待つ事しばし、程なくやって来た鶴ガ城経由飯盛山行きのバスに乗り込むとやっと一息つけました。

が、しかし、一息つくにはちょっと早すぎたみたい。。。。。

駅前を出発して本来ならば鶴ガ城の追手門のある「鶴ガ城北口」と言う所で降りなければいけないのに、何となくボーっとしていて、一駅乗り過ごしてしまい、降りたのはその次のバス停「合同庁舎前」

あ〜あ、こんな調子じゃ先が思いやられそう。

バスを降りて地図を見ながら、引き返そうか、どうしようか・・・・・・
えーい!
このままもう少し先へ進んじゃおう!!
で、予定外だけど、お城は西口から入城する羽目に
こういう時、いつも思う事・・・・・
「文句の言う人のいない一人旅で良かった。」(笑)

西口から水が満々とたたえられた堀を渡ると、石垣の角に鐘撞堂が見えてきます。

この鐘撞堂の鐘は延喜4年(1747年)に造られたもので、時守が毎日時刻を城下に報じる為に使われていたそうです。
幕末の戊辰戦争の時には、この鐘撞堂に敵の攻撃が集中し、時守が何人も倒れていったにもかかわらず、戦争が終結して城の明け渡し直前まで一度も鐘の音を途切れさせる事が無く正確に時を知らせ続けた為に、城下の人々の士気を大いに鼓舞したと言う事です。

このまままっすぐに歩いていくと、観光案内所や売店、食堂などの入った建物があり、そのすぐ傍が城の正式な玄関口である太鼓門の跡があります。

太鼓門そのものは明治になって取り壊されたまま、ただ石垣が積まれただけになっているのですが、その近くの石垣に武者走りという物が造られています。


「武者走り」
有事の際、かつてこの石垣の上にあった「太鼓門」の渡り櫓への昇降が容易に出来るように作られたものです。

この「武者走り」の真ん前に城のシンボルとも言える天守閣がそびえています。
今の天守閣は昭和40年に往時の姿そのままに再建されたものですが、この天守閣は江戸時代初期に当時の領主であった加藤明成の築いた五層の天守を元にしています。
幕末、鳥羽伏見に端を発した戊辰戦争により戦いの場が会津に移って、約一ヶ月もの長い間の籠城戦にも持ちこたえて戦い抜いた元々の城は、明治7年になって政府の命令で取り壊されてしまいました。
その城跡を旧会津藩士達の尽力によりこの城跡を管理していた陸軍省から払い下げられて、昭和9年に国から史跡としての指定を受けました。
でも、これには一つこぼれ話があるんです。

明治の新政府によって日本国中にあるたくさんの城のうち、そのまま残す城と、取り壊してしまう城を振り分けた際、実はこの鶴ガ城は、「残す城」として指定されたのだそうです。
しかし、この会津の戦いでこの城には官軍の大砲の弾が無数に撃ち込まれ、修理するには膨大な費用と大変な手間がかかるような状態に陥っていました。

実際、当時の天守閣を写した古い写真がこの新しい天守閣に展示してありましたが、梁は折れ、柱は傾き、屋根瓦も落ちて壁は穴だらけ。
中に入る事さえ危険だったのではなかったろうかと思うくらい、惨憺たる様子でした。

そして戦争の被害は城だけにとどまらず、この会津城下もほとんどが焼け野原になってしまっていて、当時の市民の生活さえ再建するのはやっとという時期でもありました。
慣れ親しんだ城を失ってしまうのは、本当に残念な事ながら、城を修理して維持していくだけの費用などはどうしても捻出出来ないと言う理由で、当時の会津市民達は不本意ながら政府に掛け合って城の取り壊しを要求したと言う事です。

そして、それとは逆に取り壊される予定になっていた城が、市民達の嘆願によって取り壊されずに残った例があります。
実は、兵庫県の姫路城が、それなんです。
取り壊されずに残ったお陰で、城のほとんどの建物が国宝として指定され、今は世界遺産の一つと指定を受けています。

再建された天守閣の中に入っていくと、そこは会津地方に残された貴重な文化遺産を公開している「郷土博物館」になっています。
1層から3層には、国指定重要文化財、県指定重要文化財、そして、市指定文化財など常時100点あまりの品々が展示されています。
4層には、会津からは切り離せない「白虎隊」の資料や遺品などが展示され、5層目は展望塔として会津市が一望の下に見下ろせるようになっています。

これは、天守閣から、「飯盛山」の方角を撮った写真です。
天守閣の中は原則として写真撮影は禁止になっていますが、この最上階だけは写真の撮影が許可されているんです。
遠くの方に見える山は、おなじみの会津磐梯山。
「白虎隊」の悲劇を生んだ飯盛山は、正面に写っている山のちょうど真ん中あたりです。

天守閣から出ると、東側にある広大な本丸跡を挟んだ所に「麟閣」と呼ばれる茶室があります。

この茶室は、キリシタン大名としても有名な蒲生氏郷がこの地の領主であった頃に建造されたものです。

蒲生氏郷は、茶人としても有名で「利休七哲」と呼ばれる利休の高弟の中でも筆頭格に上げられる程でした。
千利休が豊臣秀吉の怒りを買って切腹させられた時、氏郷は千家が途絶えるのを惜しみ、利休の次男の千小庵をこの会津の地に引き取りかくまいました。
千小庵はこの恩義に報いてこの「麟閣」を建てたのだと伝えられています。

戊辰戦争に敗れた会津藩は廃藩置県までは斗南藩(現在の青森県)へ移封となりましたが、城内が荒廃してしまう事を憂えた当時の茶人、森川善兵衛「指月庵宗久」は私財を投げ打ってこの茶室を自邸内へ移築し、取り壊しから救いました。
平成2年になって、会津若松市はこの茶室を城内の元の位置に移築復元し後世へ伝えています。

今、この「麟閣」ではお茶のサービスも受けられるようになっています。
野点、お手前、共に拝観料とは別料金が必要になりますが、こんなところでお茶を頂けるなんてそうそうあるものでは無いですよぉ。

ただし、タイトなジーパンを履いてお座敷に上がったのは大失敗でしたな(汗)
正座の苦手な方には、野点をお薦めいたします (苦笑)

「寄りつき」
外露地に建てられる物で、茶会に先立っ
て客が連れ客と待ち合わせたり、身支度
を整えて席入りの準備をする所です。
「中門」
「寄りつき」から、茶室へ入っていく途中
にある門です。これをくぐると気分が引き
締まります。
「茶室」
いやあ!!
見事なお手前でございました。      
ただ、足がぁ・・・あたたたたっ(脂汗&滝汗)

この茶室、「麟閣」の南側の堀沿い、「月見櫓跡」に、「荒城の月」の碑文があります。
土井晩翠が作詞し、滝廉太郎が作曲したこの有名な唄ですが、作詞家の土井晩翠が旧二高時代にこの地を訪れ、当時の荒れ果てた鶴ガ城を仰いで作詞のきっかけを得たのだと言われています。

城内をゆっくりと一周して、今度こそ迷わずに「追手門」から外に出ると、「鶴ガ城北口」のバス停が目の前にあった!(苦笑)
その信号を渡ると、幕末に会津藩の家老職をしていた「西郷頼母」の屋敷跡があります。

この西郷頼母と言う人物の事をちょっと調べてみると、それはそれは気の毒なくらいに不運に見舞われた人のようです。
西郷家は代々からこの会津藩の要職に着いていた家柄でしたが、頼母がまだ33歳という若さで家老職に任ぜられた時、会津藩はとんでもない役目を幕府から下命されるところでした。
その役目とは、京都守護職として幕府と朝廷の間を取り持ちながら都の警備などをする大役ですが、今までとは違ってこの時期の京都は勤王派と佐幕派が入り乱れてとても治安の悪い頃でした。
そして当時の会津藩は、数年続いた冷害のために国の経済そのものが逼迫する程に米の不作が続いていた頃でもあります。

そんな時に京都守護職などを引き受けたら、人や物資の輸送などに膨大な経費がかかる事になり、藩の財政はあっという間に破綻してしまう。
それに今のような微妙な時期に朝廷と幕府の間に立って大任を果たす事も大変難しい。
そう言って、時の藩主、松平容保に京都守護職拝命の辞退を説いた訳なんですが、
「大君の義、一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば則ち我子孫にあらず、面々決して従うべからず。」
なんて言う家訓を子守歌代わりに大きくなった若い藩主の怒りを買って、なったばかりの家老職を取り上げられて蟄居を言い渡されてしまいました。

頼母が再び家老職に戻ったのは、京都で鳥羽伏見の戦いが勃発し、会津藩内でも官軍相手に徹底抗戦をすべきという意見が大多数を占めていた時でした。
彼は藩の存続を第一に思い、官軍と講和する事をあちらこちらに進言して回りましたがついにその努力は実らず、会津は自国で官軍と決戦の火蓋を切る事になってしまいました。

会津軍がそこかしこの戦場で敗退して籠城すると決めた頃、頼母の留守を預かる彼の一家は会津藩の苦衷を知り、戦力にならぬ婦女子が籠城しても足手まといと、幼児を含む一族21人が自宅で壮烈な自決を遂げました。
その直後、屋敷に踏み込んだ西軍兵士が、急所をそれて苦しむ頼母の長女細布子(16歳)を発見、「敵か味方か」と尋ねて介錯を願う悲壮なやりとりはあまりにも哀しいお話ですが、でも、これは実際に起こった事なんです。

落城の前、容保の命を受け城外に出ていた頼母は城に帰れなくなってしまい、そのまま大鳥圭介らとともに函館戦争へと向かいました。
函館戦争に敗れた頼母は五稜郭降伏後は館林藩に幽閉され、会津戦争の責任者として処断されることを覚悟していたが放免されてしまいます。
何故なら五稜郭降伏と同日の明治2年(1869)5月18日、会津藩家老萱野権兵衛が会津戊辰戦争の責任を一身に受け切腹し、すでに会津戊辰戦争は終わってしまっていたからです。

一族21人自刃の悲劇を前に、会津武士としての死に場所を失ってしまったばかりでなく、あまりに潔すぎる妻千重子と対比され、不戦を説いていた頼母は、かなり長い間「臆病者」として評価される結果になってしまいました。

この西郷邸跡にはその西郷頼母の妻、千重子の辞世の歌が刻まれていました。

「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け」

この歌を詠んだだけで、頼母の奥さん、千重子さんの烈婦ぶりが目に浮かびそう。

蛇足ですが、この千重子さんの甥に当たる西郷四郎は、後年頼母の養子として西郷家を継いだ人なのですが、後の小説のモデルにされる程の有名な人になりました。
みなさんもよくご存じの小説、夏目漱石の「坊ちゃん」では、「山嵐」なるニックネームを着けられた人物として登場しています。
そしてまた、富田常雄の小説「姿三四郎」では主人公として登場してきています。

西郷邸の前に佇む事しばし、当時の悲劇を頭に思い描きながら石碑を眺めておりましたが、気分が落ち込んでしまわないうちにちょっと気分転換。

私がイソイソと足を運んだのは、この場所から約50メートル程の所にある「会津酒造歴史館」
杉玉が玄関の軒にぶら下げられたこの建物は今現在も造り酒屋として操業を続けている酒屋さんのごく一部をこのような展示館として開放しておられる場所です。

中に入ると、ぷーんと香るお酒のいい香り (*^_^*)
あいにくここも写真撮影は禁じられているので中の様子の画像はここに掲載できませんが、江戸時代から伝わる酒造りの道具や庶民の使っていた生活用品などが展示されかなりゆっくり楽しむ事が出来ました。

それに左党には、もっと楽しいお楽しみ(笑)
展示館をぐるりと回った後には、利き酒し放題というお楽しみも待ってます。
絞ったばかりのお酒は、日本酒よりもどちらかというと発泡性のワインに近いような味がする物なんですねぇ。
とても爽やかな後口で、いくらでも飲んでしまえそうな。。。。。。
利き酒用の盃が小さかったのがとっても残念(自爆)




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