初秋の東北路 会津若松編


「会津酒造歴史館」をあとにすると、今度は「御薬園」まで足をのばします。
鶴ガ城から約20分程東に向かって歩いたところにあるこの庭園は、その昔、この地に薬泉が湧き多くの庶民を疫病から救ったという言い伝えが残されております。

それ以来、この地は霊地としてみられるようになり、歴代の領主達は自分たちの別荘や庭園としてこの地を愛してきたと言われています。
「御薬園」は、室町時代の領主葦名盛久がこの地を自分の別荘にしたのが始まりとされていますが、その後、江戸時代になって松平氏二代目の保科正経が薬草園をここに設け、各種の薬草を栽培させた事から「御薬園」の名が起こりました。
三代目の松平正容の時代になって、遠州流の本格的な借景方の庭園を造営して以来今に至っています。
写真に写っているこの池は「心」という字の形になっていて、中の島には「薬寿亭」という数寄屋造りの小さな建物が建てられています。

庭園のはずれには今でも多くの薬草が栽培され、秋を彩る花を付けた薬草も数多く見受けられました。
中には、これも薬草なの?なんて思う物もありましたが・・・・・・・・

トリカブト フジバカマ ススキ
オミナエシ ヒガンバナ

「御薬園」をぐるりと一巡りすると、出口のすぐ傍にある休息所で薬茶が無料で振る舞われています。
いわば、漢方風ハーブティーと言ったところでしょうか。
お茶は薬臭さもなく、とても美味しかったのですが、庭からはこの土産物売り場を兼ねた休息所を通らないと外に出られなくなっているんです。
大阪人も驚く程の商魂のたくましさ!
のどの渇きを潤しているうちに、目はどうしても土地の名産物の方へ行っちゃいますものねぇ。

しかし!
「大阪のおばちゃん」は、もっと強かった!(笑)

お茶を入れてくださったお姉さんに一言礼を言うと、そのまま財布の入ったポケットに手をやる事無しに外へ出てきてしまいましたぁ。

御薬園をあとにして、次ぎに向かったのが「会津武家屋敷」

前出の西郷頼母の住んでいた家老屋敷をそのまま復元し、そしてまた、鶴ガ城の麟閣にある茶室「南庵嶺」を復元した物などを建て合わせた施設になっています。
東山温泉郷の入り口にあるためか、この日も駐車場には複数の観光バスが停まっていて、中には観光客がいっぱい訪れておりました。

この近くには「天寧寺」と呼ばれる寺があり、かつては、京にあって勤王の志士たちを震えあがらせた新撰組の隊長、近藤勇の墓があります。
近藤勇は戊辰戦争のさなかに江戸の板橋で処刑され、その首は京の三条河原にさらされましたが、何者かに盗まれました。
鳥羽伏見の戦いで負傷した土方歳三が、このすぐ近くの東山温泉で傷の治療をするために滞在していたそうですが、彼がここに近藤勇の首を葬ったという説と、首は重くてそれなりの臭気を発するため、密かには運べないので遺髪だけを葬ったという説があります。

それからもう一つ、敷地内の資料館の前に、徳川慶喜大政奉還劇のシナリオを書いたあの坂本龍馬を暗殺した人物と言われている、会津藩士・佐々木唯三郎の墓があります。

   

これが当時の家老屋敷をほぼ正確に復元した屋敷ですが、人形が所々に配置されて各部屋の当時の様子などが再現されています。

これがその屋敷の間取り図です。
黄色く塗られている部分は、お殿様がお成りになったときに使われる部屋や、城からの使者を迎える部屋、または来客を迎えるための部屋など、パブリックなスペースとして使われていました。
青く塗られているところは、家族達の寝室など主一家の生活の場でした。
すごいと思ったのは、奥方の使う化粧部屋。
一般に我々が呼ぶ「化粧室」というのは、大抵トイレと洗面所を兼ねた場所ですが、この部屋は純粋に着替えと化粧をするだけのための奥方専用のお部屋。
とてもリッチな生活をしていたんだなぁと、一人感心しておりました。
そして赤いところは、女中などの使用人の居室や仕事場だったり、警備の侍達が彼らのプライベートな時間に普段使っていた場所です。
この屋敷の部屋数は全部で35部屋もあり、畳の数を合計すると328畳。

こんなに大きなお屋敷に住むと掃除が大変だろうなぁ・・・・・・

「武家屋敷跡」をざっと一巡りしたあとは、そこからバスで5分くらいの所にある「飯盛山」に向かいました。

「飯盛山」のバス停のすぐ近くに「宇賀神堂」へ通じる急な階段のある表参道があります。

この階段を上りきったところに白虎隊の自刃の地や、彼らの墓などがあるのですが、階段を上るのは大儀だという人のために参道の横にスロープコンベヤーが設けられています。
いわば、長いエスカレーターです。

ただ、このエスカレーターを利用すると、250円の料金が必要になるので私は旧参道を利用することにしました。

これが、「宇賀神社」への旧参道。
「表参道」と違って緩やかな勾配のある道ですが、階段などはなく私にとっては歩きやすい道でした。
鳥居をくぐって中に入っていくと、「戸ノ口堰洞穴」というものがあります。

この洞穴は自然に出来たものではなく、今から約400年程昔の元和元年より、猪苗代湖の水をこの会津の灌漑用水に利用するために長い年月と、多くの人達の手によって堀抜かれたものです。

今でもこの洞穴から流れ込んでくる豊富な澄んだ水は、会津の街で飲料水や耕作用として利用されています。

この洞穴が観光名所になっているのは、かつての白虎隊の志士たちが、この洞窟をつたって敗走してきたからです。

白虎隊は慶応4年に勃発した戊辰戦争の時に会津藩士によって4隊に分かれた兵団の一つでした。
兵団にはそれぞれに名前が付けられていて、「青龍隊」「朱雀隊」「玄武隊」そして、「白虎隊」と年齢別に分けて組織され、「白虎隊」は藩士達の中では一番年若い、16歳から17歳の青年達だけで組織されていました。
ここで一口に「16歳から17歳の青年達」と書いてしまいましたが、
これは当時の年の数え方で言った年齢です。
今の年の数え方で言うと、この隊員達の中には、生まれた月によってはまだ14歳になったばかりの、まだまだ子供と言っていいような人も含まれていました。
一番最年長でも、今現在の年の数え方で計算するとまだ16歳です。

彼らは最初、若殿の警護役として結成されたのですが、官軍が会津領内に進入すると、彼らより年長者で組織された隊は次々に敗走し、とうとう一番最年少の組織さえも最前線にやられることになりました。

時は慶応4年8月22日、会津藩主松平容保は白虎一番、二番中隊警護のもとに城下郊外滝沢村本陣に出陣しました。
本陣到着後、すぐに敵が戸ノ口村まで進出したという情報が飛び込み、四番隊まであったうちの、白虎二番隊に出撃命令が下されました。
日向内記を隊長とした大人五人を、この中隊を率いる将校として少年たちは戦場に向かいました。
少年たちは37名、しめて42名の中隊でしたが、当初は主君護衛のために出陣し、出撃命令が下されたのは急なことだったため、うかつにも食料の用意をせず出発してしまったそうです。
当日は雨が降っていたそうですが、小雨程度だった雨は次第に雨足を強めて彼らを難儀させました。
函館に向かい江戸湾を脱出した榎本武揚率いる幕府艦隊がこの雨により銚子沖で遭難しています。
実はこの雨、単なる雨ではなくて、今で言う台風だったんです。

滝沢峠を越え、金掘を過ぎ、強清水に着く頃には辺りはもう暗くなっていたそうです。

大野ヶ原では百姓・町人の有志で構成される「敢死隊」が露営して、火を焚き夕餉の支度をしていたので、食料を持たない彼らは、敢死隊から握り飯を一個づつ貰い、飢えを凌いだということです。

その頃には辺りは真っ暗になっていて、雨もかなり酷くなっていましたが、敢死隊と別れて、なおも進み、道路の南側の松林に覆われた菰槌山に布陣しました。
ここで隊長は食料調達の為に、今来た道を戻ることになりました。

でも、その後、隊長は道に迷ってしまって二度と再び彼らに会うことはなかったのです。

翌23日、白虎隊の面々は冷たい風と空腹と戦場という極度の緊張感の中で朝を迎える事になりました。

当日は彼らの向かう戸ノ口原には濃い霧が立ちこめていたそうです。
その霧の中から西軍の先鋒だった土佐出身の兵が突然戦いを挑んできました。
白虎隊・奇勝隊・敢死隊は十六橋を隔てて西軍と戦いますが、西軍とは武器がまるで違い、銃も、少年たちが持つのは骨董品と言ってもおかしくないような古い口込め式のヤーゲル銃、しかも10発も連発すれば撃鉄が緩んできてしまい、敵の持つ最新式の銃の威力にはかなわない。

少年達の目の前で、多くの味方の兵が次々に敵の銃弾によって命を落としていきました。
更に西軍には大垣兵も加わり、会津軍は丘陵まで撤退することを余儀なくされます。
濃い霧と戦場の混乱から、白虎隊士中二番隊は将校を戦死又は見失い、17名の少年たちだけが残されました。
そしてその中で一番身分の高い家の子息であった篠田儀三郎が指揮を取り、退却を決断、飯盛山への道を辿る事になりました。

少年達は負傷した友を庇いながら増水した新堀(「戸ノ口堰洞穴」のこと)を抜け、やっと城の見える松林にたどり着くことができました。
しかしそこから見た会津城は既に火に囲まれていたのです。

実はちょうどその頃、・・・・・・・・
会津を防御するために各要所に布陣させていた兵はことごとく西軍に蹴散らされ、城内では籠城にて敵を迎え撃つという方針に切り替えられたところだったのです。
その準備のために、敵の隠れ場所にされそうな建物はすべて排除すべく、城内から火矢を放って街を焼き払っていた最中だったのでした。

片や白虎隊の志士たちはそんなことなど知るよしもなく、城の周辺から立ち上る煙を城そのものが炎上していると思いこみ、自刃して果てていったのでした。

彼らが自刃する前、実は2時間にも及ぶ話し合いの時を持ったと言われています。

天下の名城 鶴ガ城が簡単に落ちるはずがないとの意見も出たそうですが、斥候に出るにも、城の周りに官軍がひしめいているような状況で武士の姿のままで様子を見に行くのは不可能であり、だからといって、農家の子に変装するのは武士の子としてのプライドが許さない。

第一、斥候に出ること自体が、命を惜しんで逃げるように感じられて、それも武士の子として生まれ育った者には恥辱に思われる。

生まれて初めて戦というものを体験し、それがあまりにも悲惨な負け戦であったり、ずっと冷たい雨に打たれたり、戸ノ口洞穴の真っ暗な中を増水した水流と戦いながら歩いたり、その上、疲労感と飢えにもさいなまれて、彼らの精神状態は多分極限にまで追い込まれていたのだと思います。

彼らの傍に、そう言った場合に的確な判断の出来る成人が一人でも付いていれば、白虎隊の歴史はまた違ったものになっていたかも知れません。

しかし、一番の年長者でも、今の高校一年生程度の年齢とあれば、いくら当時の子供達がしっかりしていたといえども、このような極限状態にさらされてしまうと、もっと落ち着いて正しい判断をするように望んでも、どだい無理なことであったのだと思われます。

こうして、彼らは自力で切腹をして果てたり、作法に則った切腹の仕方に自信のない者は、友人と刺し違えたりして、次々に自らの命を捨てていったのでした。

その後、3人の白虎隊士が遅れてこの場に到着しましたが、現場の惨状を見て、自分たちも仲間のあとを追うために自らの体に刃を突きつけることになってしまったのです。

このエピソードは、当時自らも死を選びながらも唯一命をとりとめた飯沼貞吉が後になって世に伝えたお話です。

その後、飯盛山に累々と横たわる彼らの屍は、西軍のために誰も触ることが許されず、長い間、そのままの状態でさらされていたそうです。
三ヶ月ほど後に、近くの農家の人達の手で密かにこの近くにある寺に仮埋葬され、後年になってからこの自刃の地に埋葬されて立派なお墓が作られています。

このお墓の両側にはには、同じ白虎隊の隊士で別の戦地で散っていった者や、または、白虎隊には属していないが、鳥羽伏見の戦いなど、日本各地の戦いで散っていった白虎隊と同年齢の少年兵の碑も築かれていました。
彼らの墓前には、昭和初期になってからドイツ、イタリアから贈られた碑もあって、今でも香煙が絶えずその辺りに漂っています。

白虎隊19士の墓から階段を下りて「宇賀神堂」の前まで戻ってくると、このような一種、妙な形のした建物と遭遇します。
これは「さざえ堂」と呼ばれていますが、正式な名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といいます。

中に入ると、またもや変!

普通は塔などに登っていくと、登った時に使った階段を下りにも使うわけで、時には上り下りする途中に他の人とすれ違ったりすることが当たり前なのですが・・・・・
ここは、逆行さえしなければ絶対に人とすれ違ったりすることがないのです。
 
料金を払って靴のまま中に入り、階段代わりの傾斜をそのまま進んでいくと、今まで登りになっていたスロープがある地点から下りになります。
そのままなおも前に進んでいくとそのままさっき入ってきた戸口に付くという仕掛け。

これは寛政八年(1796年)に建てられたものなのですが、このらせんの廊下がさざえの形を思わせることから「さざえ堂」と言われるようになったそうです。

飯盛山の麓、飯盛山から約10分程歩いたところに、史跡「旧滝沢本陣」があります。

白壁の塀に囲まれた中にはこの辺りの特色である、茅葺きの曲がり屋風の家が建っています。

この建物はずいぶん昔に建てられたもので、文禄四年(1596年)建造だと言われています。
ここは、江戸時代に藩主が参勤交代をするときや、藩祖公を祀る猪苗代・土津神社に参るときに、旅装を整えたり休息したりするために使われていました。

藩主が城から江戸へ向かうときは、きらびやかに隊を整え、自らも馬にまたがって威風堂々と出て行かれるのですが、この本陣まで来ると衣装を取り替えて質素な旅装に着替え、馬ではなくかごに乗って江戸へ向かいます。
そして、江戸から帰ってくるときはゆっくりと湯に浸かって旅の疲れを洗い流し、そしてかごに乗ることをやめて馬にまたがり、また、威風堂々とした様子で城下を目指したそうです。

 ← 藩主お成りの部屋は、他の部屋より一段高くなっています。

この本陣は、幕末の戊辰戦争の時には会津の戦いの大本営となり、会津城下に攻め入ろうとしている西軍を戸の口原でくい止めようとして、藩主 松平容保が、悲壮な決意を持って白虎隊に出陣を命じたところです。

この左の写真が、藩主の「御座の間」として使われていた部屋です。
私はその隣の部屋からカメラを構えていたのですが、私のいた部屋は「お次の間」と呼ばれて、藩主の身の回りの世話をする近臣が詰めていた部屋です。
この二つの部屋の外は障子を隔てて畳を敷いた廊下があります。

反対側を見ると、遠州流の立派な庭がしつらえてあり、紅葉にはまだ早い、秋の落ち着いた風情を楽しませて貰うことが出来ました。


この素敵な庭のある本陣も、会津戦争の被害から逃れることが出来なかったようで、御座の間やお次の間には今も当時の砲弾のあとや柱などにも刀傷が十数カ所も残っています。

この写真の弾痕は、お次の間と畳廊下の間にある障子に残っているものですが、廊下と外との間にある障子にも同じような弾痕が残され、その二点を結んだ延長線上にある、御座の間にある障子にも弾痕の跡が残されています。
分かりやすく言えば、一発の鉄砲玉が三枚の障子を射抜いて外に飛んでいったことになるわけで・・・・

ああ〜  おそろしや〜

この陣屋を占拠した西軍の兵士達は大分好きなように無茶苦茶をしたようで、廊下を出て湯殿に向かう途中の柱は刀傷だらけでガタガタになっています。
御座の間近くにある障子など、鉄砲玉の痕だらけ!!
当時の物々しさが間近に伝わってくるような気分になりました。

今夜のお宿は駅前のビジネスホテル。
夕刻なのにもう終バスが無くなっちゃっていて、仕方なしに流しのタクシーを拾うとホテルまで運んで貰いました。
で、その話好きな運転手さんから聞きかじったここの名物料理。

「こづゆ」と、「ニシンの山椒漬け」

「こづゆ」というのは干した貝柱をメインに、色々な具をさいころ状に小さく切って加えてある、かなり具だくさんのお吸い物なのですが、この「こづゆ」に限ってはお代わりを幾らしてもお行儀の悪いことにならないとされている、会津の武家の家から伝わってきている郷土料理だそうです。
残念ながら、「こづゆ」を食することは出来ませんでしたが、「ニシンの山椒漬け」はすごく美味しかったです。

ホテルで旅装を解いてシャワーでサッパリさせてから、郷土料理の食べさせてくれるような、そして女が単独でも入りやすい居酒屋をホテルのフロントの方に教えて貰うと、郷土料理につられて歩くこと約10分。
出された「山椒漬け」を一口食べては、会津の地酒を冷やで一口。。。。
舞茸料理に舌鼓を打っては、冷やを一口。。。。
おしのぎの会津蕎麦も、これも美味 (^-,^) ゲフ

ほろよいの 頭上に揺れる 今宵月   (お粗末)


起きあがり小坊師

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