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星貿易

秋の明日香路                      


あっ、見たことある。
と思われた方も多いのでは・・・・・・・・。
ちょっと前のNHKの朝のドラマでも登場したことがありますけど、これが石舞台古墳です。
今日は、奈良県の明日香村を歩いてきました。
明日香は、飛鳥とも書いて、注「あすか」と読みますが、これには、諸説があるようです。

休日にお天気もよく、また、何も私の予定も入っていないというのが久しぶりだったもので、いきなり朝思い立って出かけることにしました。
本当は、京都の嵯峨野、奈良の多武峰、談山神社辺りの紅葉を見たかったのですが、もう人で一杯というのは、安易に予想できましたからね、だからわざと紅葉には余り縁のないところにしたわけですが・・・・・・・・・

朝、学校のある子供を送り出してから、家を出発し、近鉄南大阪線、「明日香」駅に着いたのは、10時頃になっていました。
駅前のレンタサイクルショップは人だかりで一杯、思わずしまった、って思いました。
今はブームだったんですよね、「明日香」というところ。
何しろ、NHKのドラマの舞台になっていて、それが終わってまだ半年位しか経っていないですからね。
人だかりの中からは、色々な地方の方言が聞こえておりました。
関東系の方言、中国地方、九州の人かな、って思えるもの。
私も自転車を借りようとして、ふと思い出すことがあり、やめました。
確かに、自転車があれば良いんですけどね、平地ばかり歩くのであれば・・・・・・・・・・・、この明日香というところ、もうずいぶん長いこと来ていませんが、確か、岡寺へ行くにはすごい坂道を上らなければならなかったはず。
とりあえず、駅を出るとそのまま、まっすぐに東に向かうことにしました。
しばし歩くと、高松塚古墳にでます。


 いつ頃でしたっけ、まだ私が子供の頃でしたが、すごい壁画が見つかって、大騒ぎになりましたよね。
もう、壁画のある玄室は完全に封印され、この下の展示室に写真などが展示してありましたが、写真撮影は禁止され、このページにあの有名な壁画を大きく掲載することはできませんでしたが、ちっちゃいのを、よそからかっぱらってきました。
ココだけの、話にしておいてね。
 小さすぎて、ゴメン。でも、一応、「高松塚壁画」です。



昔はここは、田んぼに囲まれた小さな小山でしたが、高松塚古墳の発掘調査が終わってから、周りも整地され、大きな公園として生まれ変わっております。
ここは展望にも恵まれて、いかにも明日香村らしい、ゆったりした景色を満喫することが出来ました。

ここを離れて、のんびり、ミカン山の間を歩くと、人も少なく、アレッ、また道を間違ったかな?なんて気になりましたが、でも、そんな道が好きなんですよね。
車も殆ど走っていず、所々に民家が肩を寄せ合うように建っている。
登りになったり、下りになったり、かなり起伏の多い道ですが、良い運動になります。でも、自転車なんか乗らないで良かった、さもないと、この時点でもうギブアップだったかも。
この辺りの民家、皆申し合わせたように、庭に柿木を植えておられます。
丘には、ミカンの木も一杯植えられていて、大阪方面に出荷されていますけど、この奈良県は、柿の生産量も多いのですよね。

 

たわわに実った柿の実、大好きなんですけど、女性の場合、余り食べ過ぎない方が良いらしい。
特に妊娠中の方は、ご用心を。
どうも、体を冷やしてしまうらしいんですが、私は結構食べます。
これって、二日酔いの予防薬なんです。
お酒を飲む前に柿を食べると、二日酔いになりにくいそうですよ、左党の方で、且つちょっとお酒に弱くなったかなと思われる方はお試しあれ。

しばらくのんびり歩くと、「定林寺跡」に着きます。

この道をもう少し行ったところに何故か鳥居があり、礎石かぽつんとあるきりですけど、ここは余りメジャーな遺跡じゃないせいか、とても静かでした。

そして、次に向かったのが「橘寺」
昔の一万円札で有名な、聖徳太子の誕生の地だとして有名なところです。



 

これが「橘寺」、下部、右側の写真は、五重塔の芯礎ですけど、とても綺麗な形をしています。
後で聞いた話、10人以上で予約すると、手作りの、おいしい精進料理が頂けるとか。
今度、仲間を募ってみよう。

「橘寺」でしばし休憩した後、一路「石舞台古墳」に向けて出発しました。
ずっと田んぼに囲まれたゆるい上り坂が続くわけですが、この日はいかにも行楽日和で、始めのうちは爽やかな風もあったのですが、だんだん暑くなってきました。
で、こんな時に限って、長袖のシャツなんか着ているわけです。半袖をきてくりゃよかった。
飛鳥川沿いの道をのんびり歩いて、玉藻橋を渡り、左に折れるとしばらくして、石舞台古墳のあるところにでます。
しかし、びっくりしましたなぁ。
思いっ切りのけぞっちゃいました。
子供の頃は、よく、親に連れてきて貰ったり、小学校の遠足などで、度々この地を訪れておりましたけど、何ともしばらく来ないうちにえらく変わってしまっておりました。
昔は、石舞台古墳、田んぼの真ん中に、でーんと放ったらかしにされていて、私は、その上によじ登って、お弁当を食べるのが好きだったのですが・・・・・・・
今はそんなコトしたら、怒られます。

 

管理が行き届いているといえば聞こえは良いけど、周りの田んぼはすべて、大きな公園と、駐車場になり、道路を隔てたところには、食堂ありの、土産物屋ありの、完璧な観光地となっておりました。
一番驚いたのは、石舞台を見るのに、拝観料を取るようになっていたこと。
いつの間に、こんな事になっていたのでしょうね。信じられなかった!!
まっ、仕方ないから、250円、払ってきました。
それにしても、この古墳、石の重さを合わせると、2300トンもあるそうです。
昔の人は、どのようにしてこれを作ったのでしょうね。
この古墳に葬られていたのは、蘇我馬子と言われています。
確証はないそうですけど、しかし、数ある古墳の中でこれだけなんですよね、普通は石で作られた玄室は土で丘のようになるほど覆っているわけですけど、ここだけは、すべての土をはぎ取られてしまっています。
当時の天皇家を敵に回してしまった豪族と言えば、蘇我氏に行き当たるわけですから、そういう説もうなずけます。

こんな景色を見ながら、なおゆるい上り坂を行くと、突如すごい上り坂にでます。

殆ど、心臓破りの登り道と言っていいような坂道ですが、この道が岡寺へ行く、近道なんです。
こんな風に、木が陰を作っていてくれて良かった。
もう、息も絶え絶え、汗びっしょり。
もう限界という頃に岡寺に行き当たります。


これが「岡寺」です。
西国三十三カ所第七番札所。
日本で一番始めに作られた、厄払いのお寺です。
別名は、「龍蓋寺」
この辺りを暴れ回った龍を捕まえて、泉に沈めその蓋をするために寺を築いたという言い伝えもあります。


山全体が、このお寺の境内になっていますけど、この本堂の前の道を登りきったところは、景色もよく、明日香村全体を一望できるようになっています。


その高台に、最近、500年ぶりに三重宝塔が再建されています。

岡寺を後にし、「犬飼万葉記念館」を横目で見ながら、「川原寺跡」に向かいました。
今でも、「川原寺」はあるんですけどね、とてもちっちゃくなっています。
昔は壮大な大伽藍が築かれていたようで、その名残が残されています。

  

上の、左側の写真、これは、かつて門のあったところですが、そこから今の「川原寺」を見ると向こうの方に見えています。

  

それで、これが、かつての「川原寺」の伽藍跡ですが、左が塔のあったところ、そして、右が、渡り廊下の跡です。
昔の姿を復元すると、すごいものが出来るのでしようねぇ。
ここで、遅い目の昼食を摂って、「亀石」を見に行きました。
地図を見ると、確かに一本道の筈なんですけど、自信が無いなあと思いつつ、先へ先へと進むと、何だかすごい人だかりが出来ています。

ん?
なんだなんだと、野次馬根性むき出しで、足を早めると、あった。
これが、「亀石」

よく見ると、亀が眠っているように見えます。
昔は、ここも、田んぼの真ん中にあった筈なんですけど、最近、この辺りも大阪のベッド・タウン化してきていて、新しい建て売り住宅がいっぱいできていました。
この人だかりはと言うと、みーんな「亀石」を見ている人達だったのです。
しかし、狭い道に、自転車の山というかなんというか、・・・・・・・・・・・・・。
で、聞こえてしまったんですよね、近所に住んでいる人のボヤク声が。
「あのドラマのせいで、道路に自転車と人が溢れて車がなかなか出せなくなった。」
「家の周りに、ゴミが散乱してしまって、毎日掃除するのが大変。」
「塀にラクガキなんかしてかえる人がいる。」
皆さん、気を付けましょう。
ラクガキするなんて、もってのほかです。

それにしても、モラルの低下が叫ばれていますけど、まだまだこの日本、見捨てたものじゃないです。



亀石のすぐ隣に、こんなお店がありました、このほかにも、いたるところに、こんな無人のお店があるんです。
大抵、値段は100円くらいかな、自分の畑でとれたものをこんな風に売って、こずかい稼ぎをしておられるようですけど、こういう商売がまだ出きるということは、まだ、未知の人間同士、信頼できるということなんでしょうね。

この「亀石」色々な伝説が残っています。
ケンカをした亀が、吹っ飛んできたというのもあり、都の一番西を表す礎石代わりという説あり。
なんでも、この亀、西を向くとえらいことになるとか。
とりあえず、今は南を向いておられるので、暫くは何事もないのでしょう。

「亀石」のすぐ近くの「舟形光背」のお地蔵さんの所で角を曲がっていくと、甘樫の丘への道に通じていきます。
私の場合は、ちょっとばかり道を間違えちゃって、またもとの道を後戻り、そして、「伝飛鳥板蓋宮跡」へ行きました。

  

ここが、「伝飛鳥板蓋宮跡」
時は、西暦645年、皇極天皇に拝謁中の蘇我入鹿を、中大兄皇子と、同志の中臣鎌足が暗殺し、西暦701年に完成する「大化改新」のキッカケになったところです。
今は、その栄華の跡も余り感じられず、ただ小さな丘陵に囲まれた平地に、ぽつんと井戸と遺構が復元されただけ、と言った感じの宮殿跡ですが、ここが「大化改新」の舞台だったのかと思うと、何とも言えない感慨深いものがあります。

この辺りまで来ると、とても綺麗な鐘の音が聞こえてきます。
最近、「飛鳥寺」の鐘が新造されたということで、観光客が突いているのでしょうが、本当に、録音して、このページに載せたいくらいでした。

ここが飛鳥寺です。
ここは、奈良時代の仏教文化が集約されたような仏像が置かれているわけですが、どこへ行ってもそうなんですけど、写真撮影は禁止。
仕方ないですねぇ。

先ほどの板蓋宮で切り落とされちゃった、蘇我入鹿の首が、このすぐ裏手に葬られています。

  蘇我入鹿、首塚  ところで、胴体はどこにあるのでしょうね。

この首塚の向こうに見える、小高い丘陵が「甘樫丘」と言われる所です。
当時は、上級貴族の高級住宅地でもあったのでしょうか。
蘇我氏の邸宅があったそうです。

「甘樫丘」の麓に、こんな石碑が出来ていました。
とても、古色蒼然としていますけど、こんなの最近まで無かったはず。
甘樫丘も、頂上までずっと階段が作られていて、とても登りやすくなっていました。
ここに着いたときは、もう4時を廻っていたかな。
だから、てっぺんまで登るのが精一杯で、甘樫の丘にある森林公園までは行けませんでした。
森林公園、とても静かで、こんな所、誰か素敵な人と歩ければいいのですけどね。
本格的な紅葉は、もう少し先みたいでしたけど、それでも落ち葉が地面を覆い始めていて、ちょっとばかり、晩秋のロマンチックな気分に浸れそうでした。


甘樫の丘から眺めた大和盆地。
中央のちょっと右寄りに見えるのが、多分「天香具山」、そして、その隣に見える、小さいのが「耳成山」、もっと左に見えるはずの「畝傍山」を撮ろうとしたら、コンパクト・フラッシュの画像容量が満杯になっていて、アウト!
残念やった。
広い盆地は、夕刻出始めた霞と、籾ガラを燃やしている煙に少しぼんやりしていましたけど、夕方に見下ろす景色もまた良いものです。
今日は、また無駄に行ったり来たりしたところ、続出で、本当は行きたかった「雷の丘」や、「酒船石」「鬼のまな板」「鬼の雪隠」など見逃したところだらけでした。
でも、また来ます。





また、良い休日が訪れますように。

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